小噺惟神

-コバナシカムナガラ-

 

御幣鼎の憂鬱 –ver「炉心融解」-

 

 

ごうごうと風が吹きぬける。耳障りだな、と思いながら、彼は息をついた。

 

事の発端は昼下がりの事だった。最近お気に入りの、「キャンペーン中のコンビニ弁当プラスペットボトルの緑茶」というランチを、事務所でいつも通りにとっていた彼の元に、本庁から血相変えて駆け込んだのは、彼の兄だった。応接ソファに座って、テレビの昼の帯番組を見ながら、割り箸を咥えていた彼は、まず、事務ブースと応接ソファを隔てる衝立の向こうから聞こえる、落ち着きのないやり取りに気付き、何が起こったのかな、と思いながら暢気にその衝立の向こうを覗いた。

「鼎は、いないのか?」

「いや、そこでメシ食って……部長?」

事務所に駆け込んだ、慌てた声は兄、(さかえ)のものだ。本庁業務部長にして、現少宮司の長男、御幣秀。余り感情も表情も表に出さない、年のかなり離れたその兄の様子に、鼎は驚きながらもすぐ、衝立の下に身を隠した。何事かあったらしい。本庁の業務部長のお出ましだ。それは解る。が、そういう時彼が自分を指名する、ということは、そのレベルも相当だということだ。怪我人の二、三人、ではないだろう。じゃあ六、七人か、それとも、死人でも出たか。あんまり関係したくないなあ。思いながら、鼎は咥えていた箸を口元で上下させた。自然と眉はしかめられる。このまま、帰ってくれたらいいのに。思いはするものの、願うほどにまではその思いも強くはない。どんなに隠れても彼は探し出され、ここから連れ出されることだろう。それは解っていた。隠れられないのだ。兄もまた、凄まじい能力を持つ巫覡だ。自分のような破壊能力ではなく、()く感応に通じる。そもそも御幣の家の人間には、滅多に破壊能力者は生まれない。いたとしても百年単位に一人、という低確率だ。自分はそれだけイレギュラーで、それだけ、この兄ともうまく行かない。鼎は内心そんなことを思っていた。反りどころの話ではない。巫覡として、いや、人間としての「性質」が全く合わないのだ。

「鼎」

切羽詰った、普段では聞くことのないその声が聞こえた。鼎はソファに座ったまま、振り返りもしない。安堵の嘆息が聞こえる。が、すぐにも声は言葉を紡いだ。

「緊急事態だ。出られるか?」

「ダメ、って言っても連れてくんでしょ?聞くだけ無駄だよ」

ちらりと視線を上げる。品のいいソフトスーツに身を包んだ、見るからにエリート、という雰囲気たっぷりの、四十がらみの男がいる。髪が薄くない家系で良かった、それが何の救いになるかどうかは解らないが、兄を見て鼎はそんなことを思った。いや、わざとらしいくらいに何かを前向きに考えていなければ、やっていられない。未だ食べきっていないコンビニ弁当とペットボトルの緑茶を適当に片付けて、鼎は立ち上がる。衝立の向こうから、神和が駆け込む。

「部長、何が……」

「神和くん、留守番、頼むよ」

焦るようにも、どこか慄くようにも見える神和を見もせず、普段通りの口調で鼎は言った。視線を上げる。睨んでないといいな、と思う目つきは、その思いとは裏腹に、研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。

「で、どこ行くの?て言うか、何しに行くの?」

「……演習場だ」

問われて、やや押し殺した声で秀が答える。鼎はその答えに盛大に溜め息をつく。ということは、だ。

「そこまでは追い込めた、って言うか、そんなにでかいんだ?そいつ」

「演習場って……部長、どういう……」

国家機関の所有するその場所は、しばしば鼎が連れて行かれる場所でもあった。暴走する「カミ」を押し込めて、始末させる。その為だ。それ以外に用件など、あったためしは無い。

一体この国はどうなっているのか、と時折鼎は思う。八百万の神々の住まう、豊葦原の瑞穂の国。その美しい名とは裏腹に、人と神々は、共存を為さない。八百万どころか一億を越えた国民の殆どは、その存在を知りながらも、それがどういう存在であるのかを知らず、時経る毎に忘却していく。

そして神々もまた、自分達よりも数を為し、日ごとに力を増していく人間を見下し、我が物顔でこの地に暮らしている。いや、彼らはここからは、離れられないのだ。大地も、空気も、水も、すべからく彼らのものであり、そして彼ら自身だ。神去(かむさ)った土地に命は留まらず、ただ荒れ果て、朽ちていく。大地から神を引き離す事は叶わない。だというのに人は、神を知らず、知らぬままに、人は大地を汚し、侵していく。

神々とて、それを黙って見てはいない。その力を以って、人に報復する事も多い。しかしその多くは、神の所業とはみなされない。とは言えこの国では一般的に「神とは人の脳が、不安を解消させるために作り出したものであり、架空の存在である」と思われている、らしい。けれどその不安を解消するために、この国にはその形骸が数多く残されている。世の常識からすれば、彼らの存在はそう言ったものなのだろう。しかし、学識のある人間は言う。「いないとは証明できない」と。

いる証明なら幾らでもできる。現にここには、それらと直接対話する能力を持った人間がいるのだ。尤も、この国の全人口からすれば、そんなことが出来る巫覡は、握り締めた砂の中のたった一粒の金の様に、余りにも少ない。ここまで霊能力者が密集している団体も、珍しいと言うか、何というか。

「部長!」

「じゃ、行ってくるよ、神和くん。明日もしかしたら、一日休むかも知れないけど」

上司に噛み付こうとする神和を置き去りに、鼎は背中で手を振る。秀は何も言わず、それに続いて事務所を出た。

 

富士の裾野、というところは厄介な土地らしい。適度に辺鄙であることや日本随一の霊山ということも相俟って、未だに新信仰宗教団体の横行も後を絶たないし、火山独自の磁場の関係もあって、樹海では自殺者も後を絶たない。とはいえその磁場の狂いも大したものではなく、多くの自殺者は「迷い込んだら出られない」という幻想を持って、そして先人の後を追いかけ、または引き摺られて、その場所に入り込む、らしいのだが。

しかし尤も厄介なのは、そこに軍事訓練のための演習場があること、だろうか。関東とも東海ともつかない、その中間にあるその場所は、そうした点からも選ばれているのだろう。首都圏も、経済圏も手広く防衛できるように、と。

でもこの辺、いい温泉はあるんだけど、温泉のお湯って石鹸の泡が立ちにくいんだよね、あれ何とかならないかな。移動中、鼎はぼんやりそんなことを考えていた。富士の演習場での事後は、大抵自腹で帰宅する。途中飛び込みで温泉旅館に立ち寄る事もしばしばだ。経費は出ない。いや、そんな金を使っても、体が休まらない。これが自分の役目だと、思っていても、思い知らされても、それでも気に食わないことに変わりはないのだ。いつか誰かから呼ばれた「布都主」というその名も、恨めしいとまではいかないが、こんな時には煩わしい。溜め息ばかりを吐き通しで、鼎はそんな自分にも嫌気が差していた。幸せが逃げるよ、って、それっていつもの僕の科白なのに。何やってんだか。

「鼎」

軍事仕様のジープの対面の座席の向こうから、秀の声が聞こえる。目も上げず、返答もしないまま、鼎はそれを聞いていた。

「半径三キロ以内に強力な結界をしいてある。目印は……なくても解るな?」

「大体ね。僕こういう時、感度も上がってるから。はみ出ると回りの気が乱れて、後が面倒になるんでしょ?」

苛立ちと怠惰の混じった声で、さも鬱陶しげに鼎が返す。秀はしばし黙し、小さく咳払いすると、

「あまり……無理はするな。望が……」

「姉さんには黙ってるよ。って言うか、あんたも父さんも叱られるんだろ?また僕をこんなことに使って、とか言ってさ」

吐息に呆れが混じる。鼎の姉、望は秀の妹になる。やはり年は離れており、鼎にとっては母の死後、その母親代わりのようなものだった。元は本殿に巫女として仕えていたが、紆余曲折を経て現在では、本庁のブライダル部門でプランナーをしている。

彼女もまた、鼎とは違う意味で御幣の家では異端だった。直系の血を受けながらも、その能力は余りにも少なく、「御幣家の巫女」としては余りにも力がなさすぎた。が「他所の宗教団体に行けば教祖でも採ってもらえそうだ」とは神和の弁だ。決してその能力が低い訳ではない。もっともそれも、彼女にしてみれば、余りにも皮肉な言葉なのだが。

「父さんも……じいさん達も、心配している……たまには家にも……」

秀の言葉がそんな風に続いた。社交辞令だか何だか知らないが、その男のその言葉が、鼎は嫌いだった。見上げるように睨めつけて、

「そういうあんたは、あの家に住んでないだろ?て言うか、結婚は?未だしないの?」

その言葉に、秀は苦笑した。視線が一瞬会うが、すぐにも秀がそらす。そして、

「そういうことは簡単には行かない。この年だ、相手も……」

梓緒里(しおり)さんとは、まだ会ってんの?」

問われて、秀は声をつまらせる。本殿の祭主、五十鈴の母親の名前だ。秀の横顔から苦笑さえも消える。構わず、鼎は続けた。

「大宮司になる気があるなら、って言うか、うちを継ぐって言うなら、そっちの方が大問題だよ。別に僕は、うちも、本庁も、なくなっても、どーだっていいけどさ」

秀は何も返さない。鼎は苦笑して、それから軽く、また息をついた。

「そんなことより、今回は何なの?いくら色々と「国家機密」レベルでも、そのくらい教えてもらえるよね?」

投げやりな声で鼎が問いかける。黙していた秀は僅かに視線を動かし、低い声で言った。

「……蜘蛛だ。さる神社の奥宮が破壊されて、そこに祭られていたらしい」

「蜘蛛の神様……へぇ……」

言いながら鼎が目を丸くさせる。奥宮を構える神社というなら、規模はともかく歴史の浅からぬところだろう。相当の田舎で、ここしばらくは半ば放置でもされていたか。それとも、不法な業者が勝手に山でも荒らして、その時に知らずに手をつけたか。思って鼎は息を吐く。大して関心がある訳でもない。片付けろと言われればするだけだ。相方は、そんな鼎を良く思っていないらしい。まあ彼は「神々の愛児」で「審神者」だから、どっちかって言ったら神様側の人だし、しょうがないよね。思いながら軽く、鼎は笑った。かすかではあったが立てられた声に気付いたらしい。秀がその目を瞬かせる。気付いて、鼎は言った。

「ああ……何でもないよ。神和くんが聞いたら、怒るだろうな、って……って言うか、一回聞きたかったんだけど、業務部長」

兄、ではなく役職名で呼ばれて、秀は身構えた。構わず、普段と変わらない様子で、鼎は彼に尋ねた。

「なんで僕みたいなのと、彼みたいなのを一緒にしとくの?僕はいいけど、彼は可哀相だよ」

答えは、返ってこない。秀は鼎から目をそらした。はん、と鼻先で笑って、鼎は言葉を続ける。

「僕も辰耶もだけど、うちの組織内でさえ浮いてるからね。出島なのは解るんだよ。でも、だったら別々のところでもいいじゃない?って言うか、僕はともかく、彼を飼い殺しにしようって言う、本庁のやり方が解んないね。ま、解ったらもっと気分が悪いんだろうけど」

「……あれだけのレベルの感応能力者を放置しておけば、彼を利用しようとする他の団体が、大人しくしていないだろう。神和自身の為にも、一組織に属しているのは懸命な事だと思うが」

「他所で飼い殺しにされるかもしれないから、うちで、って?だったら同じ事じゃん」

「鼎」

強く、秀がその名を呼んだ。鼎はにこにこと笑って、

「はい、何でしょう、部長様」

「……お前や彼が、自分達の扱いが不当だと思っているのは、解っている。だがこれも、父さんの苦肉の策だ」

「だから黙って大人しく、言う事聞いてろって?冗談だろ?確かに神和くんは、僕と違って色々大変なんだろうけどさ」

「解っているならそれ以上はやめろ。今はそんなことを話している場合じゃない」

強く言い伏せられ、鼎は黙り込む。むっとした顔のまま、鼎は兄から顔を逸らす。無言の二人を乗せて、ジープは走り続ける。車両の対面座席に他の人間がいないのは幸いだった。険悪としか言いようのない空気で満たされた空間では、他人に居場所などないに違いない。別に僕は、この人に嫌われてても、全然どうでもいいんだけど。そんなことを思いながら、ちらりと鼎は兄を見た。秀は黙して、何か考え込んでいるのか、目を伏せたままだ。

子供の頃から、この兄が良く解らなかった。鼎の母親は彼が十歳になろうという頃、病気で亡くなっている。姉、望はそれ以前から鼎を良く構ったが、秀はどちらかというと子供に構うような性分ではなかった。覚えているのは、父と激しく口論していた姿と、鼎がその能力を自覚し始めた頃のことくらいだ。御幣の家には在り得ないほどの強大な破壊能力に、家族だけでなく本庁の重鎮まで巻き込んで、一時はその能力を完全に封印するか、というところにまで話が及んだ事さえある。

秀はその時、表向きには中立だった。どちらにつくのか腹を決めろ、とあちらこちらから詰め寄られていたらしいが、その判断を彼は放棄していた。姉が言うには、それが彼のできる精一杯だったらしいのだが、未だに鼎には腑に落ちない。家族で、兄であるなら、味方になってくれるのが当然ではいのか。恨むほどではないが、そのことが未だに鼎の中には引っかかっている。どの道、自分はその兄が嫌いなのだ。その時彼が何を考えてそう判断したのかなど、関係ないことだ。

ただ、秀のやり方はその頃から余り変わっていない。それに腹が立つ。自分のことではなく、相棒、神和辰耶の処遇についても、彼は中立の立場でいる。本庁で、言うなれば幹部の役職についている立場上、下手に動き回ることも叶わないのだろう。が、それでも、それなら余計に、その態度をはっきりさせるべきではないのか。彼自身の、その身の処遇に関しても、だ。

「……兄貴は、結婚、しないの?」

何気に、鼎が問いかける。目を瞬かせて、秀はそちらに視線を向けた。

「梓緒里さんのこと、どう思ってんの?」

問いかけに、答えはない。

元は御巫の家の巫女で、本殿の祭主、五十鈴の母親であるその女性の名は、秀の前では半ば禁忌とされている。口に出来るのはごく近い人間だけだ。答えないままの兄をちらりと見て、鼎は舌打ちした。また、だんまりかよ。思いながら、苛立ちも隠さず、鼎は言葉を続けた。

「自分がそういう風なら、僕のことに口出しとか、して欲しくないんだけど」

秀の目つきが鋭くなる。が、言葉はない。構わず、鼎は続けた。

「僕は本気だからね。あの子がこのまま、生贄みたいな扱いされてるなんて、絶対に嫌だ。大体、なんで五十鈴なんだよ?て言うか今時、あんな風に……」

「お前が何をどう思っていても構わない。それが俺への当てつけでなければな」

「なっ……当てつけって、何っ……」

嘆息とともに発せられた言葉に、鼎は言葉を詰まらせる。秀は疲れたような、それでも鋭さの籠る目で、鼎を睨んでいる。

「お前のそれは、俺への当てつけだろう。違うのか?」

「……違う。僕は……」

「どちらにしても五十鈴との事は、俺も、父さんも許さない。御巫と御幣は、二つで一つだ。この先も本庁と、御坐の主を奉じていくためには、どちらが欠けても困る。五十鈴は御巫の巫女で、最後の一人だ。家を守るためにも……」

「家とか神様とか、その為になんであの子が犠牲になんなきゃならないのさ!!兄貴だって解ってるんだろ?それで梓緒里さんともっ……」

激昂して、鼎が叫ぶ。それでも秀は落ち着き払ったままだった。静かで熱い目で、鼎を見据えて言う。

「彼女のことは関係ない。これは御幣と御巫と、本庁の問題だ。お前が気に入らないと言うなら、それでも仕方がない」

鼎はそれ以上、何も言えなかった。秀は苦笑して、それから、鼎を見ずに言った。

「お前は、したいようにすればいい。生きたい様に生きろ。俺は引き止めない。出て行きたければ、勝手にどこへでも行け」

「……ふざけんなよ……本庁にいなかったら、五十鈴に会えなくなっちゃうだろ……」

ふてた顔で鼎が返す。そのまま、二人の間の会話は途切れた。

 

事務所を出てどれほどだろうか。現場についた時、空はくぐもって、あからさまに暗くなっていた。日もかなり傾いているらしい。雨が降る、というよりこれはあれか、例の何ものかの気配で空気が澱んでいるのか。思いながら鼎は辺りを見回す。

森を切り開き、奇妙な格好に整地されたそこは、木々の生えない漠然とした場所であるにも拘らず、余りにも湿気に溢れていた。土の匂いが鼻をつく。足元は黒々としていて、足裏の感触は、奇妙に柔らかい。

ジープが止められたその場所には、見たことのある人間の顔と、そうでない顔とが入り乱れて、何やら慌しく動いていた。秀は車を降りるとすぐ、そこから姿を消した。いつもと変わらない、ソフトスーツのスラックスにサスペンダー、ワイシャツの腕には事務用のアームバンド、という格好で、そのスラックスのポケットに手をつっこんで、鼎はしばらく一人だった。指示が出るまでは、下手に動かない方がいい。が、

「ちょっとあれ、何だよ?」

「ああ……さっき御幣さんが連れてきた……」

「あれが?リーマンにしか見えねーぞ?」

どこからともなくそんな声が聞こえる。ちらりとそちらを見て、鼎はそこにある人影ににっこりと笑いかけた。見える人影は、あからさまに肉体労働系、もしくは業界関係者によくある特殊和装に身を固めている。聞こえてんだよ、ばーか。思いながら、鼎は視線をめぐらせる。

「御幣」

知った顔から声が投げられる。それは小走りに彼の元に駆け寄った。やや筋肉質に見える、大柄というほどでもないが、自分よりしっかりした体躯の男の姿に、鼎は目を瞬かせた。

「あれ、栖軽(すがる)くん。何、栖軽くんが借り出されてんの?っていうか……かなり仕事内容違わない?」

「俺は連絡係程度だ。役目違いもいいとこだからな」

肌の浅黒い、いかにも体育会系の男の言葉とその苦笑に、鼎もつられて僅かに笑う。

「ご苦労様。部長の直属チーム、って言うのも、なかなか大変だよね」

「そんなことよりお前の方が……」

「あー、僕は平気、って言うか、慣れてるから大丈夫だよ?何か僕の事、知らない人とか沢山いそうだから、その辺がちょっとやり難いかなーって思ってるけど」

鼎の顔はにこにこである。栖軽は周囲を見回し、困惑を隠さない顔で言った。

「ああ……気にしなくていい」

「うん、気にしない。って言うか……何あのわざとらしい格好の人達」

「……例の、蜘蛛を逃がした、その関係者だ」

低い声で栖軽が言う。鼎はその言葉に目を瞬かせる。そして、

「……ってじゃあ、何?自分達で何とも出来なくなったから、どっかからうち手配して、それで僕が呼ばれたってこと?」

「……気分のいい話じゃないが、そういうことだ」

鼎の目が点になる。そして、

「……ばかすぎ」

呆れ顔の鼎の口から、本音がストレートに出る。栖軽は慌てて周囲を見回し、困り顔で、

「御幣」

「だってそうじゃん。て言うかさ、奥宮よその誰かに壊されるって、その時点で管理甘すぎ……」

「そのくらいにしておけ、聞こえてる」

「聞こえてるから言ってるんだよ、栖軽くん」

今一度、にっこりと鼎は笑った。そして、

「心配しなくても。僕今までこういうとこで沢山暴言吐いてきたけど、ちゃんと仕事はしてるよ?」

どうやら相当機嫌が悪いらしい。栖軽は鼎と、それを聞いて穏やかではない気配を撒き散らす数人とを見比べ、冷汗している。どうやら今日は格別、機嫌が悪いらしい。こそこそと小声で、栖軽は言った。

「それは、解ってるが……」

「だったらさ。ところで栖軽くんはさ」

「……何だ?」

話題が唐突に変わる。にっこり笑顔のまま、鼎は質問した。

「神和くんのこと、どう思ってんの?っていうか、小角(こかど)とはこれから、どうすんの?」

本庁随一の感応能力者と、仕事の相棒で同居している女性の名が出て、栖軽が固まる。そして瞬時にその顔が朱に染まり、

「なっなっなっ……何を、急にっ……」

「言ってみただけだよ。びっくりした?」

「〜〜〜〜っ、御幣!」

栖軽恭一郎、呪能は「使役」、()く式神を使う。時に「小兒部(ちいさこべ)」とも呼ばれ、本庁では「少々特異な性癖」で知られた人物、でもある。

「でも君も罪なって言うかさー、神和くんと女の子の二股って言うか、両天秤って、どうなの?」

「……それ以上言うな、御幣」

がっくり肩を落として、栖軽は力なく言葉を返す。ちょっとやりすぎたか。思いながら鼎は舌を出し、今一度辺りを見回した。やや距離を置いたところに、奇妙な気配が感じられる。肩を軽く竦め、鼎は独り言のように言った。

「……もーちょっと、フリーにしないと、はっきり解んないなー……」

「……御幣?」

傍らにいた栖軽が、その声に反応するように顔を上げた。鼎は構わず、その場からそちらを見、見ながら、

「栖軽くん、ちょっと離れてくれる?」

「え?」

「まあ……君なら、平気かも知れないけど」

言葉の直後、鼎の体を中心に、風のようなものが巻き起こる。押されるようにして、僅かに栖軽がその場から後ずさった。「力の解放」をした、らしい。鼎を遠巻きにしていた視線が、全て彼に向かう。何だ何事だ、と騒ぐ声までして、鼎は嘆息した。

「……このくらいで騒がれると、鬱陶しいって言うか、面倒だよね」

「……そう、なのか?」

「そうだよ。君が懐から「ちっこいくん」達一個出しただけで周りに騒がれたりしたら、やり難いでしょ?」

「……確かに」

式神を呼ぶ彼独特の呼称に、栖軽が僅かに笑う。御幣は全く気にしていないらしい。軽い溜め息をつくと、栖軽を見て言った。

「そろそろ業務部長か誰かに、指示でも仰ぎたいんだけど。連絡つく?」

「待っていろ。一匹「付けてある」から、すぐにでも……」

「何……ああ、連絡係って、そういうこと?」

返された栖軽の言葉に鼎が感心したように目を瞬かせる。栖軽は笑い返し、

「そういうことだ。結果的にはな」

そんな風に答えた。

 

再びジープに乗せられたのはそれから数分後の事だった。指示は直接、ではなく、栖軽の使役する式神によって伝えられたが、その式神の役目も通信機と変わらず、やり取りは対話形式で済まされた。顔が見えない分、腹が立たなくていいなぁ、などとやはり鼎はどこか暢気だったが、その暢気さがまた周囲には不評だったらしい。周囲の、温かいとは言いがたい視線を浴びながら、ジープに乗り込む。直前、同乗しようとした栖軽を、鼎は留めた。

「栖軽くんはついてこなくていいよ」

「いや、しかし……」

「ほら僕今、いつもよりフリーだからさ。ちっこいくん達いつもより怖がってるし、向こうついたらもっと垂れ流しになるから、みんな「痛がる」と思うよ?」

淡々と紡がれてはいるが、その言葉の意味は重い。鼎の力は、振るおうとしなくてもその身から滲む。小さなモノ達は、それだけで傷ついたり、時には消滅する事もある。自分の肩の上でびくびくしているそれに気付いて、栖軽は困惑した。どこか哀しげに鼎は笑い、じゃあね、と言って一人で車に乗り込む。

神殺し、時に「布都主」、神々を打ち斬る剣の名で呼ばれるその男は、その能力に反して余りにも、「緩い」男だ。優しい、というのではない。そして「甘い」というのも違う。緊張で張り詰めるということを知らず、それと対応するかの様に、日常と非日常とを切り離す事もできない。

彼ら巫覡にとっては、超常の存在も、超自然的現象も、全てが現実だ。何が現で何が夢なのか、時として区別がつかなくなることは多い。仕事にしても、だ。その能力を行使している以上、それが完全に職業、「生きる糧を得るためだけの行為」にはならない。栖軽にしても、仕事で式神を使役しはするが、その小さな存在とは日常を共にしている。自宅には、連れて歩くものだけではない多くの式神を住まわせているし、私的な外出先でも、迷う雑霊を「拾って」「飼う」ことも珍しくない。

生業と、そうではない自分の領域とを完全に切り離せないのは、時として苦しい。それが自分で選んだ事だとしても、いや、それなら尚更だ。鼎の場合は殊更だろう。父親が少宮司を勤める宗教団体にいて、実兄がその業務部長、ともなれば、自宅にいても、職場の問題から開放されない。そして、あの能力だ。制御していなければ「垂れ流し」の、神たるものの全てを害するその力は、彼自身を日夜危険にさらす。

神は、人よりももっと利己主義だ。自身を脅かす者は容赦なく滅ぼそうとする。鼎も、脅かす者として、その力を自覚したその時からずっと、危険にさらされ続けている。

今は力を制御することを覚え、その「垂れ流し」の頻度も低くはなったが、それでも彼らに好かれることは滅多にない。いや、嫌われている、というより、恐れられているのだ。近付くとそれだけで「痛い」。それだけの破壊の力とは、一体どんなものなのだろう。そしてそれを御するという事は、どんな事なのか。

きいきい、と肩の上の小さなものが鳴いた。見遣るとそれは、その外見と裏腹に、老いた男のような口振りで言った。

「やれやれ、行きましたかの」

掌に乗るほどの、小さなねずみのようなそれは、彼の肩の上で、安堵の息を吐く。栖軽は苦笑して、

「心配するな。あいつに、お前達をどうこうする気はない」

「気などなくとも。あれは知らぬ間に、幾らでも我等の様な弱いモノを屠りまするぞ。まあ、あちらで暴れている大きいのに比べたら、余程安全ではありましょうが」

老いた小ねずみはそう言って、わざとらしく体を震わせて見せる。栖軽は笑いながら、

「余程、か。酷い言われ様だな」

「先に主殿(あるじどの)に言われて、近くにて見て参りましたが、あれはなかなか、危のうござりますぞ。まあ、我を忘れた霊など、大小に関わらず、あの様なものではありますがの」

小ねずみの物言いに、栖軽はただ笑っているだけだ。そこにいるそれも、言葉を発している訳ではない。そして、それを感知する能力がなければ、その姿を見ることすら叶わない存在だ。時として肉の体を持ちはするが、それも束の間であり、使役する人間の能力で、その精度も様々である。

小ねずみは背伸びして、トントンとその腰辺りを前足で叩いてみせる。ほぼ人間と同じ仕種に、また栖軽は笑い、

「なかなか危ない、か。お前達と比べて、どれほどに危険なんだ?それは」

「我等など、単に小兒部殿の使役にすぎませぬ。しかしあれは、まず大きい。しかも我等のように、知性がない。後先など考えておりませんでしょう。まあ、そこまで怒らせた、また更に大馬鹿者がおるから、でしょうが」

「大馬鹿、か。確かにその通りだな。あんなものを起こしておいて、後始末を俺達になすりつける、とは」

その言葉に栖軽はまた笑う。小ねずみは嘆息して、

「されどそれもいた仕方ありますまい。主殿の近くには、それはまあとんでもない巫覡がおります故。あれだけの力を持ちながら、山の主の加護まで持つとは。気が知れませんわい」

言って、小ねずみはまた身を震えさせる。栖軽はそんな小ねずみに、重ねて尋ねた。

「気が知れない……誰のだ?」

「決まっておりましょう。あの物好きの、山神殿でございますよ。放っておけばあの「神殺し」、山神殿さえ断ち切るほどになりましょうに」

その言葉に、思わず栖軽は言葉を詰まらせる。小ねずみはしばし黙し、

「全く……人とは不思議なものにございますな。カミたる者から生み出されながら、そのカミを凌駕しようとは」

「神を凌駕、か……」

どこかぼんやりとした目で、栖軽は鼎を乗せたジープを見遣る。果たしてそれだけの力を持った人間が、神よりも高位であるものだろうか。神たる者よりも優れ、満たされ、幸いであるだろうか。

灰鼠(はいねず)

肩の上のモノは、その名を呼ばれて目をしばたたかせる。

「何ですかな、主殿」

「あいつを見ていろ。俺に目を貸せ」

言葉に、小ねずみは驚いたように目を見開いた。栖軽はいたずらっぽく笑うと、

「お前になら簡単なことだろう?心配するな。消されないようにちゃんと守ってやる」

「……当然でございますよ。我等は主殿と異心同体。我等に何ぞあれば、主殿とてただでは済まぬというもの。まあ……中には見越して、身代わりに消されるものもありましょうが」

眉根を寄せるようにして、さも嫌そうに小ねずみは言った。栖軽がその腕を上げると、小ねずみはその上を伝い、彼の掌へと駆け上る。

「しかし主殿も、けったいな連れをお持ちですな」

「けったい……あいつがか?」

「けったいでしょうとも。酔狂とでも言い換えた方が、良うございますかな」

手の上でキイキイと、子ねずみが声を立てる。笑って、栖軽はそれに返した。

「まあそう言うな。あいつも俺も、お前の様に何百年も永らえている霊からすれば、三十年と生きていない小童なんだ」

「存じておりますよ。まあ、構いませんがの」

灰鼠の言葉が終わると、栖軽は彼が昇ったその手を強く握り締めた。小ねずみの姿がそこから消えて、その周囲の空間が揺らぐ。ぐにゃりと歪んだその中から現れたのは、銀色の羽を持つ、一羽の猛禽だった。それは人間の子供の背丈ほどあろうという羽根を二度、三度と羽ばたかせ、そのまま、空へ駆け上る。

「しかし何しろ、近寄るものがあの「神殺し」と蜘蛛めです。主殿も、ご無理はなさらぬよう。何事かあれば、始祖様に申し訳が立たぬというもの」

「解っている。気をつけるよ」

ジープを追って、銀色の羽根の猛禽が飛び去っていく。無言で、笑いもせず、栖軽はそれを見送った。

 

乗り込んで数分と経たないうちに、鼎はそのジープを降りていた。結果内に入ったことが解ったようだ。ここまで来たら後は一人の方がいい。運転手と、何故か同乗していたどこかの宗教団体の人間を返して、鼎は今度は、走り去るジープを見送っている。

くぐもった空は、今にも泣き出しそうだった。日も暮れかかっているらしい。刻一刻と、辺りは薄闇に包まれ始める。光のない空間は、人の世界ではない。その中で目を光らせ、そこに何があるのかを確かに知る事が出来るもの、それだけが、闇を生きられる。人は、光の下でしかものを見ることができない。けれど彼らは、どんな深い闇の中であっても、そこがどこで、何が存在しているのかを、知る事ができる。それが人間の「視覚」と同じ感覚であるにしろないにしろ。まあでも「見えてる」って思っとかないと、何か色々面倒だって、神和くんも言ってたよね。何気にそんなことを思い、一人鼎は笑う。

視界は、効かなくなっていく。けれど全身の感覚は、普段に増して鋭くなっていた。見えているのではないかもしれない。しかしここがどんな場所で、何がそこにいるのか、彼には解っていた。慣れた場所、と言えばそうだ。ここへは散々連れて来られている。今日のように。しかし同時に、ここがどんなところなのか、きちんとした事を教えてもらったことはない。知る必要もないが、それも国家機密か何かなのだろう。何しろここはジープや装甲車が走り回っている、作られた荒野だ。どこにどのくらいの規模で、などという詳細は、余り外に漏れない方がいいに決まっている。

に、しても、たかがオカルト宗教団体の面倒くさい後始末に、良くこんなところが借りられるよね。一体誰が手配してるんだろう。思いながら、鼎は笑うのをやめた。そして、小さく呟く。

「まあそれも、どーでもいいって言うか……考えてる余裕も、ないみたいだなぁ」

それは彼の体の奥を、直接刺激するような感覚だった。ざわざわと、体の奥から肌が粟立つような、奇妙な感覚が起こる。汚れた手で直接、肌の内側でも撫でられているみたいだ。毎度の事ながら、気分が悪い。眉をしかめ、鼎は目を凝らす。

薄闇の中、見えたのは黒く大きな塊だった。ずるずると這いずる様にして、それはゆっくり、鼎に近付いているらしい。距離が縮むのは、気色悪いあの感覚ではっきりと解った。温い風が吹きぬけて、ごうごうと音を立てる。舌打ちして、わざとらしく鼎は言った。

「ああもう、面倒って言うか。僕だって、来たくて来たわけじゃないし、やりたくてする訳じゃないんだ。だから大人しく、始末されてよね!」

声の直後、目の前ににごった灰色の何かが迫った。反射的に飛びのき、それを避ける。投げられた縄の様に、それは彼の目の前で強く地面を穿った。大きな泥の塊が飛び散る。それはすぐさま引き戻され、再び、鼎に向って放たれた。糸か。それも、大量に束ねられた様な。思いながら鼎は続く攻撃をも避けて、除けながらじわじわと、その糸を放つ根元に近付こうと試みる。

【近寄るな、痴れ者。吾を何と心得る】

頭の中に、直接揺さぶられる様な感覚とともに、ずしりと重く、声の様なものが響く。鼎は眉をしかめ、その声に怒鳴り返す。

「知らないよ、そんなの。僕はただ、呼ばれて来ただけなんだから!」

【吾を屠ろうとは、不届至極。直ぐにもその身、喰ろうてやろうぞ】

鞭状だった糸の束は幾筋にも分かれ、唸りを上げて鼎に襲い掛かる。絡めとるつもりか。思って、攻撃を避けようと鼎は周囲を瞬時に見回す。が、周囲の総てを塞がれ、逃げ道は見付からない。ぎゅるぎゅると音を立て、糸は鼎に降りかかり、瞬時にその体を絡めとった。全身が灰色の、ねばねばとした糸に締め付けられる。が、直後それは爆散した。衝撃で、千切れた糸が辺りに撒き散らされる。その中心、鼎は腕をクロスさせた格好で、肩で息をしていた。一瞬、とは言え、体がそのまま潰されそうなほどに締め付けられた。流石に山奥に祭られていた存在だけの事はある。その辺でふらふらしている雑霊とは、レベルが違う。

「……生きてても、しょうがないとは思ってるけどさ」

恐らく、元はどこかの山の神だったのだろう。それも、かなりの高位の。自分が普通の人間だったなら、その体から出ている瘴気だけで、どうにかなっているかもしれない。気分の悪いあの感覚は、それがじわじわと自分を蝕んでいるからだ。気分が悪くなってひっくり返って、ついでに心臓でもやられてるかな。どこか冷静に、鼎はそんなことを思った。人並みの体質の、それらの存在とは関わりのない、ごく普通の、一般的な一個人だったら。

けれど自分はそうではない。国津神の長の子たる山の神の加護の下にあり、尚且つ、その神と直接対話する『資格』を与えられている、らしい。でなければその存在が、目の前に現れる事はないと、いつか誰かが言っていた。神様が会ってもいい、って思わないと、会えないんだっけ。でもどうしてあの人、僕なんかにも会って話したりするんだろう。「神殺し」とか言われてるような人間なのに。

思いながら、鼎は再び駆け出していた。あの糸状のものに足止めされている場合ではない。さっさと本体に近付いて、始末してしまわなければ。余り時間もかけられない。闇が深くなれば、相手はその力を増す。自分は不利になるばかりだ。

生きていても仕方がない、とは思っている。特別やりたいこともないし、しなければならないこともない。時々こうやって、化け物退治のようなことに借り出される以外に、自分があの組織にいる理由も、もしかしたらないのかもしれない。

しかしそれが、自分にとっては一番『やりたくないこと』だ。特別憎いとも嫌いだとも思っていない誰かと戦わされて、始末しろと言われる。しなければ、きっと自分が殺されるのだろう。もしかしたら、しくじった場合、自分は本庁から追い出されるのかも知れない。

でもそれでも、特に困ることもないだろう。それでもどうしても生きていけなくなったら、その時はその時で、なるようにしかならないし、それで別に構わない。大怪我をして、死にそうになって、酷い呪いをかけられて、一人になっても、なるようになるだけだ。死ぬなら、それも仕方がない。

「……財布にカード、入ってたっけ……」

何気に鼎はそんな風に呟く。ここで暴れると酷く汚れる。体は泥と汗まみれになるし、靴は下手をすると、もう二度と履けないレベルにまで痛む。

とは言え今対峙しているモノの類と戦闘した後、その身につけていたものは総て処分される。穢れをそのまま身につけておけば、本来拾う事のないはずの、禍つ霊や災いを呼び寄せるし、神殿の主祭神の不興を買う。神域どころか彼の場合は実家にすら入れず、下手をすればその主祭神の手で、その神域から離れた場所で始末されかねない。あの人穢れ、大嫌いだからなぁ。まあこの国の神様ってみんなそうだけど。胸の中でそんなことをぼやきながらも、鼎は先へと突き進む。

「まあ、着替えは用意してくれてるんだろうけど。どうせ」

黒く巨大な、折れ曲がった古木のようなものが目に入ったのは次の瞬間だった。その向こう、小山ほどある、やはり黒く大きな塊が見える。本体だ。思うのも束の間、折れ曲がった黒い棒状のものが、大きく暴れた。振り下ろされ、凪払われるそれを避けながら、鼎は更に先に進む。蜘蛛の、それは足らしい。避ければその先へと、巨木が空から振り下ろされるように、鼎に襲い掛かる。叩きつけられると、地面がその振動で大きく揺れる。

「……僕は、平和主義者なんだよ、本当は」

もし仮に、自分を殺して、その相手の気が済むなら、それでもいいかもしれない、と思う。けれどそれらの怒りは、それだけでは収まらない。

神が怒りを覚えたなら、それは一時で解かれるようなものではない。大地は朽ち果て、命の総ては滅び、何もかもが無に帰すまで、その怒りも呪いも消える事はない。悪くすれば、それは肥大して、更に多くの犠牲を払わせることになる。巨大な意思と力を持つ、人智を超えた存在。肉の体を持たないが為にその命は永劫に近しく長く、また、滅びを知らない。

そして同時に、彼らは人間の雛型だ。人間よりも感情に溢れて、その心に任せる事は、人間以上だ。愛したなら、その身が滅びても尚愛し、憎んだなら、同族の総てを滅ぼしても、未だ足らず。哀しみに捕われたなら、更にそれは肥大する。もしかしたら神様って、人間より、可哀相なのかも。幾度か思ったことを、鼎はまた思った。愛しいと思っても、憎いと感じても、その思いに捕われてしまう。そして哀しみの余りに、もっと哀しい結果を生み出してしまう。例えば、己が守るべきはずだった人間に、屠り手を差し向けられる。

「……だけど、しょうがないじゃないか。僕以外に出来るヤツが、いないって言うんだからさぁ!!

振り下ろされ、凪払われ、し続けられる黒く太い何本もの足を避けながら、怒鳴るように鼎は言った。地に叩きつけられ、ずしずしと音を立てるそれを、寸でのところでかわす。当たったら痛いじゃ済まないよな。て言うかこの人は、僕のこんな近くにいるのに、痛いとか感じてないって事だよね。相当ヤバいっぽいなぁ。

【痴れ者、去ね!吾を屠ろうとは、如何なるつもりぞ】

「だから僕は、頼まれて……うわっ」

目の前、黒い足が迫る。避けきれず、鼎はその顔をたたき飛ばされた。頭が吹き飛びそうな衝撃とともに、地面に叩きつけられる。その勢いで、泥の中に体がめり込む。起き上がれない。思った直後、鼎は叫んでいた。

「くそっ……うぉぉぉっ」

どん、という衝撃とともにその体が跳ね上がる。彼がめり込んでいた地面が弾け、泥の塊が周囲に飛び散った。再び吹き飛ばされるも、今度は宙で態勢を整え、顔を上げた格好で何とか着地、というより落下する。衝撃で全身に痛みが走るが、構ってないどいられなかった。

【この……人間風情が!疾くと死ぬがいい!】

「ばかやろー!!死んだら、もう五十鈴に会えないだろ!!

小山ほどある蜘蛛の上体が、起き上がっているのが見える。直接踏み潰すか、食い殺す気か。鼎が思って身構えた直後、その状態に覗いた口から、鈍く光る牙と、吐き出される灰色の糸が見えた。真直ぐこちらに飛ばされた糸が、避ける間もなく鼎を絡めとる。瞬時にまた締め付けられ、その強さに思わず鼎は呻いた。

「っ……くっそ……何度も、同じ手……」

ぎりぎりと、それは鼎の体を締め付ける。みしみしと軋んでいた鼎の体の奥から、鈍い音が低く響いた。その重い痛みに、鼎の口から声が漏れる。

「うぐ、ぐふぅっ……」

その顔が苦く歪んだ。このままだと、本当に殺される。いや、本当も何も、自分は今、殺されかかっている。多分この人、僕が完全に死んでから、ゆっくり僕の体、食べるんだろうな。あの口で。ぼりぼり、って。痛みに顔を歪ませながら、何故か冷静に鼎はそう思った。じゃあ食べられる時はもう、痛いとかそういうの、解んないか。それってラッキー……じゃなくて、食べられること事体、全然ラッキーじゃないか。締め付けられ、逃げることも叶わないまま、鼎は胸の中で呟く。

僕、ここで死ぬのかなぁ。でもまあそれも、しょうがないよね。そういう宿命だったんだよ、きっと。って、何回もこういう目に、会ってる気もするけど。

「御主が死ねば、宮の巫女姫は嘆こうな」

耳元、唐突にその声はした。ぎょっとして、鼎は思わずその視線を巡らせる。くつくつと、声は笑っていた。何が楽しいのだろう。思いながら、鼎はその声に聞き返した。

「……何、神様。何か用?」

「さして用という程でもないが。御主の無様なところを見に来たのだ、布都主」

「……ああそう。ヒマなんだ?」

こっちは命を張っているその最中だというのに。思いながら、鼎は眉をしかめる。姿は見えない。ただ声と、気配だけを感じる。それは確か、自分を加護してくれていれるはずの存在だった。余り宛にはならないが、一応鼎もその山裾の生まれである。氏神で、産土で、所属する宗教団体の奉ずる主祭神なのだ。別に頼んだわけじゃないけど。思っていると、笑う声は更に言った。

「御主も、因果よの」

「あー……そうだね。因果だよ。でもしょうがないだろ?これが僕なんだから」

「そうではない。解らぬか、布都主」

「……何が?」

この人、本当に僕達と、まともに話す気ないって言うか、意思の疎通図る気、ないよね。今だって多分、口で会話してないのに、こんなまだるっこしい事しか言わないしさ。思い、鼎はふと気付いて、

「もしかして神様、お迎えって言うか、お見送り?」

「……何がだ」

「いや、だからさ……僕が常世に行くから、って……」

声の主は、その一言で気分を害したらしい。しばし黙すと、

「痴れ者。我が何ゆえ、斯様な事などせねばならん」

「だって今僕、危機的状況だよ?骨も何本か折れてるし、これだと多分、内臓も……」

「……未だ気付かぬか、主も相当の痴れ者よの」

嘆息交じりの、呆れの言葉が聞こえる。鼎は眉をしかめ、

「痴れ者痴れ者って、あんまり連呼しないでくれる?神様。幾ら僕でも……」

「良き刃は、斬らんとせねば斬れぬものぞ……手のかかる痴れ者には、今一つ教えてやらねばな」

意味の良く解らない言葉が続く。眉をしかめていた鼎に、呆れたその声は言った。

「何故、我が声を聞く?我が氏子、布都主」

「え?」

「我が加護を忘れたか。そして、己の性を忘れたか。鼎。神殺しの、布都主の名を戴く、人の子よ」

くすくすと、声が笑う。何だそれ、と思った直後、別の声が耳を打った。

「何をやってる、御幣!」

打たれたようにはっとして、鼎は声のする方を見遣った。顔の上までぐるぐる巻きの、粘着質の糸の間から、僅かに空が見える。黒い点が、空で旋回していた。

「……栖軽、くん?」

その名を呼んだのは、鼎の口で、肉声だった。つい今まで、姿の見えない何ものかと交信していたものとは違う。あれ、僕、口が聞けるんだ。思っていると、天から降る声は続けざまに、鼎に怒鳴りつける。

「早くそれを何とかしろ。食われるぞ!」

「……ああ……うん、そうだね……」

「〜〜〜〜〜っ、お前、ふざけてるのか!自分がどんな状況なのか、解って……」

「解ってるよ……逃げるけど、危ないから先にそいつ、避難させた方がいいよ」

口許さえも糸で巻き上げられた状態だったが、鼎はそう言って、僅かに笑った。空を回っていたものが飛び去る。目を閉じて、鼎はそこで強く念じた。刹那、彼を中心に巨大な爆発が起こる。

その体を絡めていた粘着質の糸もろともに、彼を覆うようにしていた、小山ほどもある巨大な蜘蛛の体が、その衝撃で弾け、瞬時に塵と化す。ごうごうと、耳を劈く轟音が当たりに響き渡り、大地は、その上に立つものの総てを倒す勢いで、大きく揺らいだ。しばし、宙に漂っていた塵は、ざあざあと音を立てて更に小さくなり、次にもう一度鼎を中心に起こった爆発によって、その場から掻き消える。

青い光を纏って、鼎はそこに立っていた。どこかぼんやりとした目で空を眺め、それから、ゆっくりと視線を下ろす。地面は爆発の衝撃で、彼を中心にクレーターを造っていた。また、やらかしたかなあ、叱られるかなあ。そんなことを思って、かすかに鼎は笑う。

「あーでも……まだ生きてるなぁ……なんでだろ……」

ぐらりと、その体が揺らぐ。体に纏っていた青い光は、いつの間にか消えていた。倒れ伏して、鼎は声を立てて笑う。力が抜けたらしい。いや、疲労が一気に来たのか。体が鉛のように重い。そして、あちこちが酷く痛む。

遠くから、ジープのエンジン音が聞こえたのは、それから間もなくだった。疲れすぎて、顔を上げる事もできない。が、自分を収容に来たらしいことは解る。エンジン音が止まる。ばたばたと足音が聞こえて、それから、

「御幣、しっかりしろ。生きてるか?」

栖軽の、今度はしっかりと肉声が聞こえた。手を上げようとして出来ず、また鼎は笑う。

「……何とか……でもこれなら、死んだほうが、楽かも……」

「何を言って……部長っ……」

叱られるなあ、栖軽の声にそんなことを思ったその時、鼎の体がふいに持ち上げられた。強い力に引っ張られるのを感じて、鼎は視線を泳がせる。自分の肩を、兄が担ぎ上げたらしい。見ていると、兄は渋面で言った。

「何をやっている。死ぬ気か」

「……そうかも……」

答えて、ははは、と軽く鼎は笑った。秀はそれに更に眉をしかめ、無言で歩き出す。栖軽は脅えるような心地でそれを見送り、それから、鼎が倒れていた、今自分が立っているその地点から、辺りを見回した。

「おお、怖い怖い。全く、物騒にも程がありますわい」

ばさばさと羽音がして、栖軽は顔を上げた。銀色の翼の猛禽が降りてくる。腕を差し出すと、それは躊躇いなく、彼の腕に止まり、肩を竦ませるような仕種で言った。

「もう少しであの蜘蛛もろとも、吹き飛ばされるところでしたわい」

「手間をかけさせたな」

「手間どころか」

猛禽は、次の瞬間小さなねずみに姿を変えていた。栖軽の腕の上、肩めがけて駆けていく。

「それにしても、凄まじいものですな。あんな目に会っても、未だ死なんとは」

脅えた様子で、それでも感心するように、肩の小ねずみが言う。栖軽は苦笑して、

「だからこその二つ名だろう。とは言っても、かなり危険だった」

「確かに、主殿の声で目を覚まさなんだら、あのまま死んでおりましょうな。一瞬とは言え、あれでまともに生きているなど、尋常ではない」

空から、その肩にいるものの目を借りて、栖軽は鼎の戦闘の一部始終を見ていた。特別な鍛錬はしていない、とは言うものの、その動きは常人のものではない。暴れまわる巨大な、蜘蛛というには足の多すぎる、巨大な化け物からの攻撃を避けながら、その本体の懐に飛び込み、それを直接その力で粉々に砕いた。それも、たった数分のうちに、だ。蜘蛛の糸に絡められた時には、さしもの神殺しもここまでか、と息を飲んだが、それも一瞬の事だ。鼎も無傷ではなかったが、それでも、差し引いて有り余る戦闘能力、いや、破壊の力と言った方がいいのかもしれない。

「全く、あの様な人間が回りも気にせずうろついておっては、我等の様な弱いものは、うかうか昼寝も出来ませぬぞ。ああ、くわばらくわばら。それで尚且つ、山神の加護まであろうとは」

肩の上の小ねずみが、恐ろしいと言わんばかりに、その身を震わせながら言う。その言葉に、栖軽は軽く首をかしげる。

「まあ、それはそうだが……当然だろう?あいつの家は代々、御坐主を奉じているんだし」

「さばかりではござらん。今しがたも……主殿、お気付きになられませなんだか?」

その小さな目を思い切り向いて、驚いたように小ねずみが言う。栖軽は首をかしげたまま、

「……何のことだ?」

 

「っ……いたたた……あーもー、酷い目に会った……いたいたいた……いていて……」

連れて来られた時と同じ、対面座席のジープに載せられて、鼎はそんな風に呻く。そこまで鼎を肩に担いできた秀は、ぼろぼろになった鼎の顔を覗き込み、

「大丈夫、なのか?」

「だからさっきから、痛いって言ってるだろ?ああでも……内臓潰れてたら、血くらい吐く、かなぁ……」

言って鼎は車外に向かい、ペッと軽くつばを吐く。吐き出されたそれは、少量ではあったが、どす黒く染まっていた。秀の表情が強張る。見もせず、

「あーやっぱり、結構痛かったからなー……今も体中、ぎしぎし言ってるし……」

「……他に、何かないのか。意識が混濁しているとか、呼吸が苦しいとか……」

顔を見ないまま、秀が問いを重ねる。鼎はしばし黙し、

「……別に」

「別に、って……」

「あばらの四、五本も折れて、内臓も潰れて、もう駄目かなーって思ったけど、結局フツー……まあフツーでもないけど、生きてるし」

ちらりと、鼎は兄を見遣る。顔面蒼白で、秀はその場で硬直していた。にやりと意地悪く、鼎は笑ってみせる。そして、

「今度こそ、死ぬかと思った」

「……馬鹿なことを言うな。本当に、お前……」

「別に、死んでも良かったんだけど」

「っ……鼎!」

強く、秀がその名を呼ぶ。怒りを顕にした兄の顔に、また鼎は笑う。

「……お前は、どうしてそう……」

「五十鈴が泣くかな、って思ったら、死にたくなくなった」

その言葉に、秀は押し黙る。鼎は笑うのをやめて、そこにいる兄に言った。

「そういうことだよ。それ以外に、僕があそこにいる理由なんかない」

「鼎……」

鼎は秀を睨みつける。秀は、しばしその目に竦められていたが、耐え切れなくなったのか、すぐにも視線をそらす。兄のその態度に、鼎は苦笑を漏らした。そしてそのまま、次の言葉を紡ぐ。

「最寄の駅辺りまで乗っけてってよ。で、明日……明後日まで有給、つけといてくれない?今回しっかり疲れたから、ちょっといいとこ探して、ゆっくりして帰るから。えーと……財布、財布……」

車内に置きっぱなしだったらしい上着を手繰り寄せ、鼎はそのポケットをまさぐる。

「あー……あったあった。カードは……よし、入ってる入ってる……」

秀は、黙ったままそんな鼎を見ていた。泥だらけの傷だらけの、疲労困憊の、生きているのが不思議なくらいの状況だというのに、鼎は、比較的元気のよさそうな顔をしていた。もっとも、体のあちこちが痛いと言っているのだから、全くの健康体ではないのだろうが。

「本当に……大丈夫なのか?」

今一度、秀が尋ねる。鼎はそちらを見もせず、

「何?今更僕の「こーゆーの」に驚いてんの?いつものことじゃん。って言うか」

言いながら、鼎が顔を上げる。目が会うと、その口許がにやりと歪んだ。

「自分の弟ながら「(こわ)い」って?」

「っ……鼎っ……」

押し殺した声で、秀がその名を呼ぶ。あからさまに嘲る顔で、声を立てて鼎は笑った。

いつもの事だ。こういう時の兄の態度にも、周囲の反応にも、もう慣れている。けれど全くそれが平気という訳ではない。

何故自分に、こんな能力があるのか、幾度も繰り返し、鼎自身もそれを考え続けてきた。神をも断ち切る、破壊の力。この世の何もかもを砕く事ができる、そんな力が何故、存在するのか。そしてどうして、自分がそれを持っているのか。

幾ら考えてみても、答えなど見つからないし、誰かがその訳を教えてくれる訳でもない。何もしなくても体から漏れるその力は、無意識のうちにも、ありとあらゆる霊体に、マイナスの影響を及ぼす。彼らは大抵「害された」と判断し、それに抵抗するように、あるものは泣き喚き、あるものは酷く彼を罵倒し、そしてあるものは、その力を排除しようと、彼に襲い掛かる。この世に生き残る、その為に。

「……なんで死ねないのかなぁ」

ぽつりと、何気に鼎は呟く。蒼白な顔で、秀がそれを睨みつけていた。完全に無視して、鼎は思いをめぐらせる。あれかな、神様が、守ってくれてるのかな。でもなんで?下手したら、自分だって殺されちゃうかもしれないのに……まあ今のところは、そんな気ないけどさ。暢気に、鼎はそんな思いをめぐらせた。

「鼎、お前、いい加減に……」

僅かに震える秀の声がする。鼎は冷たい視線で彼を一瞥すると、大きく息を吐いた。そして、

「着替え」

「……着替え?」

「そうだよ。こんな格好じゃ、寄り道もできないだろ?いつものスーツと靴……支度してないの?」

声に、僅かに苛立ちが混じる。秀は何か言おうとしたが、言葉を飲み込み、鼎に背を向け、

「……そこにあるだろう。見てみろ」

「あ、本当だ……こういう手配は早いよね……まあ「いつもの」って言ったら支度してくれるか、毎回ワンパターンだし……」

自分の傍らにあった化粧箱に気付き、鼎はそれを慣れた手つきで開ける。そして、スーツ一式と靴を取り出し、

「あ、これ、新しいラインのやつ?わー……手配したの誰?気がきくなぁ……これ欲しかったんだよねー……ラッキー……」

普段の、甘いものを目の前にした時のような顔になって、鼎は真新しいジャケットを広げる。秀は鼎に背を向け、車を下りながら言った。

「支度が出来たら声をかけろ。送らせる」

「そういう言い方って、どうかと思うなぁ。僕、今回「も」、ここで一番の功労者だよ?もっと言い方ってもんがあるだろ?ご苦労さん、とか、手間かけさせたな、とかさあ?」

助詞の一音をやたらに強調するように言って、鼎はニヤニヤと笑う。秀は振り返らない。見送って、笑うのをやめてから、鼎は一人、低く呟いた。

「……ざけんなよ、このくそ兄貴」

 

 

 

 

 

 

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Last updated: 2009/07/01