宗教法人八百万神祇会の奉ずる主祭神、大御坐主尊には弟神がある。名を、弟彦神尊といい、県境の向こうの、ある山の主である。
「ってゆーかさー、なんってゆーかさー」
「まあ兄神殿はああいう性格だから、諦めてはいるんだけど」
その日神和辰耶は、いつも通りに事務所にいた。そして来客は、いつも通りに唐突にやってきた。十四、五歳の、よく似た面差しの、水干を纏う少年の姿をしたそれは、苦々しい顔で対峙している彼を、殆ど無視して話し続けている。
「それにしたってちょっと酷くないかと思ってさー……あの人自分とこの子分なんかには、ベタ甘だって話じゃん?」
「まあうちの主殿も、甘やかされる年じゃないけど。弟神って言ったって、双子なんだし」
水干とポニーテールの、こちらも双子らしい少年達の会話に、神和は憤りと疲れの溜め息を吐いた。そして、苛立たしげな声で問い返す。
「で、お前ら俺に、何の用だ?」
二人は問われて、目を丸くさせると顔を見合わせた。そして、
「何の用って」
「審神者、お前人の話、聞いてなかったのか?」
あからさまに見下した、というより馬鹿にした目つきで神和を睨む。はー、と今度は解り易く大きな溜め息をついて、神和は言った。
「俺は所詮は人間風情なんだ、もっと解り易く話してくれ」
大御坐神社の歴史は古いが、主祭神に拠れば、「ここに大地の出来た頃から」存在する、という。先史時代まで遡られると資料もないですのでね、というのは資料室の担当の弁だが、何しろ神の言い分である。人間が文句の言える立場でもないのだろう。神社の創建は飛鳥時代頃ではないか、と推測されてはいるが、その辺りのこともはっきりしている訳ではない。
とりあえず、その存在が巫覡と呼ばれる仲介者に人との仲介をさせてからは、千五百年ほど、だろうか。本庁の近隣では最古にして最大規模の神社であるその神社は、その為に近在の信者も多く、霊験あらたかであると専らの話である。そしてその弟神もまた、同じく。
そんなこんなで、数日後。
「兄神殿には、御壮健で……」
「我等は肉の体を持つものではない。壮健も何もなかろうに」
本庁本殿は最奥の神殿で、その二柱は対面していた。人間の常識的に考えれば着座の順は、来客が最も上座、となる訳だが、客分は一段下の下座に置かれ、主たる彼は、それが当然の事であるように、上座で、脇息などに凭れかかって、寝そべるまでも行かないが、相当にくつろいだ様子である。
「わー、なんか、時代劇の、将軍様と大名みたい」
その様子に思わずそんな感嘆の声を漏らしたのは御幣である。傍ら、神和は眉をしかめて無言であった。その弟神、弟彦神尊が兄神である彼の社に来ることは、珍しい事ではなかった。兄弟なんだから行き来してもおかしくないじゃない、というのは御幣の弁だが、そうした行き来があること事体、どうやら稀らしい。夫婦神の妻問いならいざ知らず、男の神が男の神の元を訪れるのである。しかも、
「あーもー腹立つなあ!兄神殿、あんたいい加減にしろよ!」
「だよなあ。一発殴ってやりたいくらいだよ」
例の双子も、こうやってくっついてくる上に、彼らの主であると思しき弟神よりも、態度が大きい。この辺り一帯の精霊の類なら、その誰もが畏怖する存在であるはずの御坐主にも、恐れ慄くどころか噛み付く勢いである。御坐主に言わせれば「小物すぎてまともに相手をする気にもならない」らしいのだが。さておき。
「それで、今日は何をしに来た?」
「いえあの……使いを出したと、思ったのですが……御返答を、頂けなかったので……」
外見にしてみれば、二柱は殆ど変わりがない。が、その性質は正反対と言ってもおかしくなかった。上座で不機嫌そうにしている御坐主とは違って、弟神は真面目な面持ちで下座に座し、少々へりくだりすぎの言葉遣いで、兄神に対峙している。真面目腐った、という形容の似合いそうな表情の弟神を一瞥し、御坐主は鼻で笑った。
「使い、か」
「ちょっ、お前!なんで笑うんだよ!今笑うとこかよ!」
「あーでも、今のは別に怒るところじゃないんじゃないか?」
どうやらもう一組の双子も、良く似てはいるが性格は違っているようである。弟神は騒ぐ二人をちらりと見、それから、少々困ったような顔で言葉を続けた。
「何か、粗相でもあったのでしょうか……それなら、私から叱っておきますが」
「……まあ、そこな二羽の小鳥は、いつ何時でも粗忽よの」
含み笑いで、御坐主が言葉を返す。弟神は困り顔を二人に向け、
「御前達、少し黙っていなさい。兄神殿に粗相があってはいけないと、いつも言っているだろう」
「だって、主殿!」
「そもそも兄神殿の方が、俺達よりずーっと失礼だと思うけど?」
叱るつもりが反論されて、弟神はその形の良い眉をしかめる。その様子を見て、くすくすと御坐彦は笑っていた。その様子に、双子達はまた御坐彦に噛み付く。
「何だよ、何がおかしいんだよ!」
「大体そっちがまともに取り合わないから、こういう始末になってるんだって、解ってないな?」
「御前達、いい加減にしなさい」
苛立ちの籠った声で弟神がしかりつける。二人はそれに渋々黙り込み、その様子にまた、御坐彦がくすくすと笑った。
「なんか、楽しそうな光景だよね」
「お前みたいなのから見りゃ、そうだろうよ」
何気ない御幣の言葉に、神和も少々呆れ気味のようである。めっ、とでも言いそうな目つきで弟神は二人を睨み、それからまた、兄神へと向き直る。そして、
「申し訳ありません、兄神殿。もっとしっかり叱っておきますから、この二人のことは……」
「まあ、お主がそう言うなら、お主に任せよう。とは言え、斯様に使えぬ神使とはまた、お主も気苦労の多い事よの」
笑いながら、ややわざとらしく御坐主が言う。が、それには笑って弟神は返した。
「そうでもありませぬ。兄神殿の思っていらっしゃるよりも、とても良い神使ですから」
兄神の目つきが僅かに変わる。弟神は笑ったまま、愛でるように双子を見遣り、
「良く私に仕えてくれています。良い神使です」
「……然様か……使いの一つもまともにこなせぬに……」
「そればかりがこれらの役目でもございません。兄神殿とて、多くの者をお抱えでいらっしゃる」
言葉に、兄神は眉をしかめる。代わらぬ笑顔で、弟神は言った。
「……あれらは我が神使に非ず。使う者ではない」
「然様でございますか」
一旦、言葉が途切れる。にこにこ笑ったままの弟神を見て、こそこそとまた御幣が神和に耳打ちする。
「なんかあの人、もしかして性格悪い?」
「……怒ってるんだろ、単に」
「でも単純な怒り方じゃないみたいに見えるよ?」
「だったら黙って見てろ」
しばし、対面の二人の間に沈黙が下りる。嘆息したのは御坐主だった。物憂げな目で弟神を見遣り、しながら、
「それで、使いの用を足しに、何故にお主がここに?」
「偶には、お顔でもと思いましたので。ここの処は、此方に滅多に伺ってもおりませんし」
「顔なぞ、鏡で見たら良かろう。主と我とは双子神なれば、顔など同じ……」
「まあ、そうですが」
物憂げなままの兄神の態度に、弟神は苦笑する。が、
「先達ての月次に、此方の神主めが参りました。幾つになっても兄神殿は、巫覡共を困らせることがお好きなようですね」
「……説教でもしろと、頼まれたか」
言いながら、御坐主は体を起こした。弟神はにこにこと笑って、
「此方では主の悪口も吐けぬというもの。兄神殿は耳が聡くておいでです。しかし誰も、然様なことは言っておりませんよ」
「……用件を言い置いて、疾くと去ね、弟彦」
すっかり気分を害したらしい。ふてた顔で言って御坐主はそっぽを向く。
「疾くと去ね、だぁ?」
「わざわざ御坐山くんだりまで来たって言うのに、今のはないだろ、兄神殿」
その言葉に、それまで黙っていた双子が再び騒ぎ出す。忌々しげにそれを睨み、
「我が呼びつけた訳でもない。お主らもな。使いを出すと言うなら、神使でなくとも神主か巫女で良かろう。わざわざで来る訳が、どこにある?」
「確かに、兄神殿の申される通りです。お前達は、もう少し黙っていなさい」
騒ぐ二人を一瞥し、弟神は嘆息する。そして、少し困った顔で笑うと、
「実は、分かち身を、と私の社に、申し出がありまして」
「……好きにしたら良かろう。分かち身の一つや二つ……」
「ですが私は、弟神ですから。兄神殿の様な「名」がないのです」
困った顔で笑って、さらりと弟神は言った。
「はーい、しつもーん」
そこに、何を思ったか御幣が挙手しながら割り込む。弟神と兄神はそろってそちらに目をやった。
「何だ、布都主」
不機嫌丸出しで御坐主が指名する。目を丸くさせたまま、御幣、
「名前って……名前ならあるじゃない。弟彦神、って……」
「それは、兄神殿が在るからそう呼ばれているのだ。名ではない」
困った笑顔で、弟彦神尊が答える。御幣は更に首をかしげて、
「何それ、どういうこと?」
「我等は「対」だ。だから名は、本来一つなのだ」
が、返された答えには更に混乱するばかりである。首を傾げ、眉を寄せ、御幣、
「……神和くん、どういうこと?」
「つまり、「兄がいるから弟と呼ばれている」、弟彦ってのはそういう名だってことだ。つまり、兄がいなきゃ弟でも何でもない、そういうことだろう?」
「まあ……人の解する処で言えば、そういうこと、かな」
神和の言葉に、弟彦が返す。ち、と小さく舌打ちしたのは御坐主だった。再び脇息に寄りかかり、疲れたように言葉を紡ぐ。
「それで、主はどうせよと言うのだ。双子とは言え、主は主、我は我ぞ。山の名でも冠するか」
「私の山は、やはり弟彦山ですから、それも余り良い手とは言えないかと」
弟神はそう言って軽く息をつく。困っているらしい。思って、御幣がまた口を開く。
「それで、弟彦神様は、うちの神様に相談しに来たの?どうしようか、って」
「いや、そういうことではないのだ」
弟神はそう言って、改めて御坐彦に向き直り、言った。
「兄神殿も、共に如何か、と」
御幣、神和、そして御坐彦の目が丸くなる。と言っても神和の目はいつも通りサングラスの下で見えないが。にこにこと弟神は笑っている。兄神、御坐彦はすぐさままた眉をしかめ、
「……請われておるは、主であろう。我には関わりのない事」
「矢張り、そう仰いますか」
その返答を、どこかで悟っていた様子で、弟神が苦笑する。
「それに、分かち身など、我は好かぬ。我が身はこの山、ただ一つのみぞ」
「そんなこと言って、自分の分身あちこちでうろうろさせるの、得意じゃない?神様」
御幣が茶々を入れる。御坐主は無言でそれを睨みつけると、疲れたように息を吐き、言った。
「用が済んだのなら、疾くと去ね。主とて、山を空けても居れまい」
「……兄神殿が然様に申されるなら、仕方ない。御前達、帰ろう」
残念そうに弟は言って、お付きの双子達へと振り返る。二人はそれが気に入らないようで、不貞腐れて、
「なんでだよ、兄神殿」
「そうだよ。別にいいじゃないかよ、分かち身の一柱くらい」
「兄神殿のけちんぼ」
「っていうか、なんでこんなに偉そうなのかな。うちの主殿の兄神殿なのに」
ブツブツと丸聞こえの罵詈雑言を吐き始める。そっぽを向いて、御坐彦は無言のままだった。が、その額が僅かに痙攣している。
「御前達、やめないか」
「でも主殿」
「そうだよ、わざわざ主殿自ら、御坐山くんだりまで来たっていうのにさ」
叱られながらも、愚痴は続く。弟神は困り顔で双子をいなしながら、
「すみません、兄神殿……とんだ失礼を……」
「主がしておる訳でもなかろう。それに、斯様な小者の粗相など、いちいち気にはしておらぬ」
額をぴくぴくさせながら、それでも御坐主はそう返す。一連のやり取りを見ながら、再び御幣、
「じゃあ弟彦神様、分祀はどうするの?お願いされてるんでしょ?」
「そうだな……神主共に良く沙汰させよう。兄神殿の分かち身と共なれば、我が分かち身も、心安いかとも思ったのだが」
問われて、どこか頼りなげな顔で弟彦が漏らす。御幣はまたその目をしばたたかせ、
「一人だと、心細いの?神様でも」
「……此方には、そういう者が多く集まっておろう。兄神殿は、こう見えて心の広い方ゆえ」
ぶ、とか吹き出したのは神和だった。耳聡い主祭神が鋭い目でそちらを睨む。御幣は不思議そうな目で、その兄神と弟神を見比べ、
「まあ……そういうところあるけどね、うちの神様」
さらりと言う。少々寂しげな笑みを見せて、弟神は軽く兄神に会釈した。
「では兄神殿、これにて」
「え、弟彦神様、もう帰るの?」
「たった今、疾くと去ねと言われた。長居も出来まい」
御幣の驚きの声に、苦笑しながら弟神が返す。御幣はしばし考え込むように黙り込み、そして唐突に言った。
「弟彦神様って、うちの神様のこと、好きなの?」
その言葉に、神和がまた、ぶ、と吹き出す。今度は驚いたらしい。脇息にもたれかかってだんまりの御坐主はますます眉をしかめ、問われた弟神は目を丸くさせた。そして、
「……布都主、何故斯様な事を尋ねる?」
「うーん……何となくだけど。僕にも兄貴が居るんだけどさ、あんまり上手くいってないんだ。どっちかって言ったら、好きじゃない方だし」
問い返され、御幣は困った顔で笑う。弟神はちらりと兄神を見遣ると、御幣のその様子に苦笑し、
「然様か……人も我等も、心こそは然程に変わらぬものだ。お主はお主で、兄は兄で、思うところもあろう」
「そうだねー……僕なんか、思うところだらけだからなー……」
「我等は双神、とは言え、元々は一つ身の神。人の言う「好く好かぬ」かは解らぬが、抜きん出て憎いと思った事はない。兄神殿はああいう性質であるから、誤解も受けていようが」
言いながら、弟神は兄神を見遣る。兄神はそっぽを向いていた。その様子に、弟神がまた僅かに笑う。
「でも兄神殿の態度は、あんまりだと思う」
「そうだよな、あんまりだよ」
傍らの、別の双子達がそう言って口を開く。それも笑顔で見遣って、弟神は今一度、兄神に声を投げた。
「それでは、兄神殿。我等はこれにて」
しかし反応はない。弟神は何度目かの苦笑を漏らすと、双子の神使を連れ、その場を立ち去ろうとする。
「待て、弟彦」
背を向けた途端、その兄神が声を投げた。双子の神使と、弟神が振り返る。脇息から離れ、ふてた顔で、兄神はさも不機嫌そうに言った。
「審神者、巫女を召せ」
「……は?」
「酒と、山海の珍味を支度させよ」
唐突に話を振られた神和は、そこで一人、サングラスの下の目を丸くさせる。ふてたまま、御坐主は続けた。
「去ぬと言うなら止めはせぬ。然れどどの道、山に戻るも瞬きの間であろう。弟彦、付き合え」
「って……話が見えんのだが……」
言ったのは神和である。御幣は何故か笑って、
「まあまあ、神様が、お酒と肴、って言ってるんだから、そうしようよ、ね?」
言われた弟神も、突然の展開に驚いているようである。ぼんやりとその場に立っていたが、
「何だよ、兄神殿、帰れって言っといて引き止めるのか?」
「何だかんだ言って、兄神殿もうちの主殿の兄神なんだよな。何なら今晩、泊まってやってもいいぞ?」
お付きの方は何が嬉しいのか、ニヤニヤの笑顔で、上座の御坐主を揶揄い始める。御坐主はふてたまま、
「お主らは喧しいから、帰っても構わんぞ」
「何だよ、それ。主殿だけ?」
「だって俺達、主殿の神使だぜ?いいじゃん、一緒になんか美味しいもの、食べさせてくれても」
そのやり取りを見ていた弟神の表情が、ゆっくりと解ける。双子の神使はそのまま御坐主に駆け寄ってじゃれ付き始め、鬱陶しげに御坐主はそれをふり払おうとする。
「貴様ら、いい加減にせぬか」
「何だよー、素直に認めろよー」
「別に好きでもいいんじゃないのか?兄神と弟神なんだし」
「……二柱とも、兄神殿が困っている、やめなさい」
困り顔で言いながら、弟彦が御坐主の傍まで歩み寄る。双子の神使はニヤニヤのまま、
「良かったな、主殿、兄神殿に嫌われてなくて」
「この前来た時はどうしようかと思ったけど。でもあれも、口実だったのかな」
「口実?」
「うん、兄神殿の」
「主殿がここに来る様に、って」
二人の言葉に弟神は目を丸くさせる。御坐主は何も言わず、黙り込むと再び、傍らの脇息にもたれかかった。
「で、いきなり宴会な訳ね」
「……祭礼係長には、お疲れ様です」
数十分後、神殿には詰めている神主と巫女とが集められ、酒宴が開かれていた。上座には良く似た面差しの兄神と弟神が並び、一柱は和やかに、もう一柱は不貞腐れたまま、酒を酌み交わしている。
「巫女、なんか踊れー!」
「あー折角だから審神者、うちの主殿に酌しろ、酌」
神使の二柱も強かに飲んで、調子もかなり乗りすぎのようである。で、更に、
「そーじゃそーじゃ、誰か踊れ、歌えー!!」
「儂も審神者の酌で飲みたいのう」
「てゆーか肴になったら美味そうじゃのう」
杜に住まう有象無象も集まって、人間風情の都合はさておき、大騒ぎである。
「だーっ、だから俺は酌婦じゃねーっつってんだろー!!」
「似たようなもんだろ」
「というか「愛児」って言う時点で、大体その人肴扱いだよね」
神和の雄叫びに、社殿に詰める神主や御幣のツッコミも入る。
「まあでも、今夜はお客様もお出でだし……弟神様が来るのって、ちょっと久し振りじゃないかしら」
本殿祭礼係長、稲生芙須美が、その酒宴の切り盛りをしながら言う。御幣はその傍らで手伝いをしながら、
「あ、そうなの?ちょくちょく来るんだ?」
「ほら、弟神様はうちの神様の双子の弟だし。元々、一柱の神様だったそうだから」
「あーそれ、さっきも弟彦神様に聞いたなあ……じゃあうちの分霊?」
「いいえ、弟神様は弟よ。分けたのは、あのヒト達より「もっと高位」の神様みたいだし」
「「もっと高位」?」
かつてこの土地には、国津神の長の、息子である一柱の神が住まいしていた。その正体は大きな山であり、山神はその裾一帯を一柱で支配していた。
ある時、山の神は山の一部に、坐るのに具合のいい岩坐を見付けた。そこでその身をその岩坐に置く事にし、人はその岩坐の下に山の神を奉る社を作った。山は神の御坐である事から御坐山と呼ばれ、山神は御坐に坐ます神、御坐主尊と呼ばれるようになった。
時代は下って、山裾には人の集落が幾つもできた。人々はそれぞれの村でその営みを繰り返し、さらに増えていった。山神はその全てを守り、支配していたが、坐ます岩坐はかつて定めた一つきりで、その場を動くことは滅多となかった。
山神の岩坐から離れた土地で山神を奉ずる人々は、できることなら自分達の近くにも、神を奉る場所が在ればと願っていた。それでも山神は岩坐を離れることはなかったのだが、ある巫女の願い出によって、山神の身は、その父神により二つに分けられた。その時山は鳴動し、一つだったものが二つに分かたれた。分かれた山神の一柱は御坐主、一柱をその弟である、ということから弟彦神、と名付けられ、山も、元の岩坐のある方を御坐山、もう一つを弟彦山、と呼ばれるようになった。
これが弟彦山と弟彦神尊の誕生の伝承である。
「創建はどっちも飛鳥時代ぐらいらしいから、分かれたのはきっともっと昔だろうな……それもかなり大昔」
神殿の酒宴を抜け出し、御幣は定刻間際の資料室にいた。担当者は地誌と、それを纏めた資料とを御幣に示して、その伝承のあらましを簡単に説明してくれた。
「飛鳥時代以前、ねぇ……こんな山奥なのに、結構昔から人が入ってるんだねぇ……」
出された資料を眺めながら、御幣は感心したように言う。司書はそんな御幣を見て、笑いながら、
「そうだな。でも歴史的にも、この辺は結構面白い土地柄だぜ?明治期の神道政策のアオリも、あんまり受けてないっぽいし」
「……何それ。僕そーゆーの詳しくないから、良く解んないんだけと……」
司書の説明に、御幣は首を傾げる。司書であるところの青年、松前和嗣は、
「あー……明治時代に入ると、政府の政策で、神道が国家戦略に利用されるようになるんだよ。何つーか、天皇の権威付けに」
別部署の同僚であり、高校時代からの友人の説明にも、どうやら御幣はぴんと来ないらしい。松前は困り顔になって、
「お前、日本史とってただろ?」
「一応ねー……でもそーゆー細かい事ってマニアしか調べたりしないじゃん?」
その言葉に、松前は閉口する。彼の場合、資料室の司書であるので、一口に「マニア」というのもどうかとは思われるのだが。
さて、明治期、政府は天皇の権威付けのために、神道を利用していた。神仏分離政策やその為に起こった廃仏毀釈などは有名な話である。支配者の祖先たる神霊を崇め奉り、その権威をヨリ揺るぎないものにするために、この国の神たる存在は、全て天皇家に連なる神に塗り替えようとしたのだ。
その名残か、祭神に縁喪所縁も妖しい神様の名前を戴いている神社も多数ある。(てか地元神社、縁起で「鬼形」が降ってきたのに「八幡」で「応神天皇」とかどうなんだ本当に)
八百万神祇会の主祭神、大御坐主尊は、恐らくその名付けも後の世に行なわれたものであろうが、そうした政策神道による影響を、余り受けていないらしい。土地の神がそのまま、現代までその正体を変えられる事も、誤魔化される事もなく祭られ続けている。そして父神は「国津神の長」とされるが、その名も正体も明らかではない。
「今本殿に、弟彦神様が来ててさー」
「……は?」
「って……ああ、君ってそういうの、解んなかったっけ……」
教団職員には、いわゆる霊能者の類もいるが、勿論そうでない人間も多い。地元出身というだけで系列の高校に通い、大学で日本の宗教文化などを学んだ結果、資料室の司書として就業している松前も、しかりである。神殿で巫女や神職が神様と宴会、などと言っても通じない相手は、ここにも多い。彼もまた、その中の一人だ。
「うちの神様と弟彦神様って、仲がいいんだろうなー、と思ってさー」
「何だそりゃ……神様の兄弟仲?」
溜め息混じりに御幣がぼやく。松前は首を傾げていたが、突然、
「何だお前、熱でもあるんじゃないのか?」
「……失礼だな。僕だってたまには、そういうことも考えるよ」
その一言に御幣は膨れる。松前は笑い飛ばすと、
「お前にだって兄弟いるじゃん?望姉さんとか、栄さんとか」
「……姉さんはともかく、兄貴はなー……」
姉と兄の名が出て、御幣は更に沈む。松前は訳が解らない友人の態度に首を傾げながらも、
「そう言えば、業務部の方からちらっと聞いたけど、今度○△市の方に、弟彦神社の分霊、するんだってな?」
「あー……うん……それで来たんだよ、弟彦神様。一緒にどうか、って」
「は?ああ……向こうの担当者か……一緒って?」
微妙に話はかみ合っていない。御幣は困ったように笑って、
「まあ、君と話してても、こんな感じだよね。見えないし、特に好かれてもないし」
「……だから、何がだよ?」
神殿では、夜も更けているというのに、未だ宴が続いている。巫女や神職達は、気がつくと姿を消していた。今そこで騒いでいるのは、誰一人として「肉の体」を持たない者ばかりだ。いや、たった一人、そこに人間が取り残されていた。審神者にして「神々の愛児」、神和だ。
「チクショー……全員逃げやがったな……」
気がついた時には取り残されていた、というのだから、それは当人がタそのイミングを逃しただけなのかもしれないが、神和にはそう毒吐くしか術がなかった。周りでは、杜に住まう様々の存在と、弟彦神尊の二柱の神使とが、未だに大騒ぎである。神和も、酔っ払った有象無象に引っ張られるやら圧し掛かられるやら、時には齧られるやら、散々であった。
「これこれ、あまりそこな審神者を苛めぬ様にな」
そう言うのは弟彦神だけで、しかし言うだけで、余り気持ちが籠っているようでもない。おもちゃにされている彼の様子を見て、笑っていたりする。
「弟神」
御坐主の顔つきは、相変わらず難しいままだった。時折、双子の神使が揶揄いにやってくるから、かもしれない。しかし傍らの弟神は、にこやかに笑っていた。時折酌をし、返され、気分良く飲んでいる様子である。
「何でしょう、兄神殿」
唐突な問いに返しながら、弟神は兄神の盃に酒を満たす。弟神を見もせず、兄神、御坐主はそれを干し、そして言った。
「神主共が、語らってするというのであれば、好きにさせよ」
「は……好きに、とは」
「分かち身も、一柱では心細かろう。主と我とは元より、一柱であるしの」
御坐主は弟彦神をちらりとも見ない。弟彦神はそれでも、その言葉の後、それまでとは別の明るさを放つ顔で、笑った。
「然らば、然様に」
「……何がおかしい」
「いえ……神主が、兄神殿に困るのも、斯様な御性分ゆえかと思うと、おかしくて」
くすくすと弟神が笑う。兄神は無言で盃を突き出し、笑いながら弟神が、それを満たす。
「しかし今宵は、余りに急な宴にて、神主も巫女も、困っておりましょう……申し訳なかったな……」
「ここは我が社、我は山の主ぞ。斯様な小さな事は、気にするな」
「兄神殿はいつも、その様な……そう言えばいつぞやも、古い巫女の墓がどうのと言って、身を大きく御震わしになりましたな……それで私の所も、少し崩れましたが……」
「弟神……お主は未だその事を根に持っておるのか?」
終