定刻が過ぎ、夜が更ける。電算室で一人、ガベルは一台のコンピューターに付きっきりだった。白い卓上にはくたびれた紙束と、恐らく食べるものを包んであったであろうと思われるプラスチックのフィルムの残骸とが散らばっている。ストローのついたパックを片手に、そのいかつい男は唸ったり眉をしかめたりしつつ、モニタに食い入りながら、ろくに手元を見ることもなくそれを操作していた。
「うっわ、まだいたのかよ?仕事熱心っつーか、お前バカだろ」
何の前触れもなく電算室のドアが外から空けられる。呆れた声のその主は目で確認しなくても誰なのか解った。声色も口振りも聞きなれた、ややもすると鬱陶しい部類に入る、とは言え同僚である。無条件に拒否することもはばかられたのか、ガベルは返した。
「お前よりよっぽどましなバカだけどな」
「アル、そーゆー言い方すんのかよ?大親友の俺様に向かって」
男は言いながらドアの側からガベルの背後へとやってくる。そして、彼の食いついているコンピューターが乗っているのとは別のデスクから椅子を引き出し、それに馬乗りになるように腰掛けた。そして、車輪の付いたその椅子を器用に乗りこなし、ガベルの覗いているモニタに食らいつく。
「しかも俺抜きでおもろかしい事やってたって?昼間」
「何だそりゃ、誰に聞いた」
「レオンとカイルに。相当怒ってたみたいだけど、何やらかしたんだ?お前」
その問いかけに、ガベルは初めてそちらに振り返った。白金の髪とにやついた笑みが見える。ケッ、と小さく吐き捨てて、それからガベルは言った。
「別に。何もおもろいことなんてしてねぇよ。俺はどっかのバカと違って真面目な機関構成員だからな。ちゃんと働いてたさ」
「ほー、デスクワーク全部打っちゃって丸一日若い奴いじめてるってのは、立派な仕事なのか、なーるほど」
「シロ、てめぇ……何が言いたい?」
わざとらしくも感心しきり、と言った顔つきのシロ・グランドを睨みつけ、ガベルが低い声で尋ねる。凄まれても、慣れているらしいシロはニヤニヤとまた笑うと、
「べっつにぃー、そんな不良中間管理職の男がこんな夜遅くまで電算機の前で何やってんのか、気になっただけだしー」
「「だしー」とか言うなお前は、鬱陶しい」
言葉の後、ガベルがガッ、と威嚇するように咽喉を鳴らす。それでもシロはニヤニヤ笑っていた。そして再び、今度はモニタを見ながらガベルに問いかける。
「で、何やってんだ?アル。こんな遅くまで」
「見りゃ解るだろ。データ解析だよ」
興味津々、それも子供の見せるその顔でされた質問に、呆れたようにガベルは答えた。シロはその目を瞬かせると、ヒュー、と小さく口笛を吹く。そして、
「何何、アルの最新戦闘データか?順位はどうなってる?」
「まだそこまで出てねー……つーかコイツは新型のデータだ。順位もくそもねぇよ」
「何だ、つまらん。俺はまた記録更新でもしたかと思ったのに」
言葉とともにシロの顔つきも変わる。退屈そうなその顔を見てガベルは苦笑し、それから、
「ま、暫くはお前とガティとでトップでも争っといてくれや。俺はそういうのはもういい」
「じゃあアレか、戦闘用のベースに使うデータか何かか」
シロが、今度は至極平然とした態度で尋ねる。ガベルは軽く息をつくと、
「というより、俺の個人的な実験だな。訓練機だが、一人でどこまで動かせるのか、ってな」
「何だよ、隊長御自ら二人乗り否定かよ?」
「いや、そういう訳じゃねぇが、一応、念の為に……」
「用意周到、というより、相変わらずのビビリ男だな、アル」
シロが呆れの吐息をつく。笑ってもおらず、なおかつ自分を揶揄ってもいないその声にガベルは苦笑した。構わず、シロが続ける。
「今度の機体は集団戦より単体戦を想定した、遊撃メインの機体だろ?今までの重めの機体よりパワーもでかいし色々の融通も利く。やろうと思ったら実剣だって背負って歩けるんだぜ?そんなのに乗っかったら、お前なんて敵なしじゃねぇかよ?」
「買い被るなよ、俺はそんな大したタマじゃねぇ」
「この俺をして三勝も勝ち越してんのにか?」
自信満々なのかそうでないのか良く解らない科白がシロの口からこぼれる。ガベルは苦笑すると、
「あんまり調子に乗るなよ、シロ。この俺に三敗も負け越してんだ。お前だって大したパイロットじゃねえってことさ」
「何言ってやがる!俺様はマチルダ、フェーンに次ぐ歴代総合三位の成績で入隊したスーパーエース様だぞ?しかも入ったその時には入隊最年少記録の……」
「それで一体何しに来たんだお前は。ヒマだったらとっとと寝床に帰って寝るなり何なりすりゃいいだろ」
話がどんどんずれていく。修正する、というより厄介な相手をどうにかしようとガベルは呆れ口調で言った。シロは瞬きして、それから、
「いや俺は、ただの暇つぶし」
「だったらなおの事、さっさと帰れよ」
「帰ったって何もすることねーもん。アルでもからかってなきゃつまんなくてよー……いいじゃんたまにはよー、俺達親友なんだしよー、ちったぁ遊んでくれてもよー」
「素直に新型のデータのコピーが欲しいって言ってみろ、その口で。なあ?グランド中尉」
ガベルが笑っているのかいないのかの、絶妙な表情で強く尋ねる。シロは一瞬言葉に詰まり、それから、肩をすくめて苦笑した。
「いやな男だな、お前は」
「お互い様だろう。取りたきゃいくらでも取ってけ。どーせどっからでも引っ張り出して使えるようになるからな。実戦投入後には」
言葉の後、ガベルが鼻先で笑う。シロは参ったと言わんばかりに肩をすくめ、ガベルは無言でコンピューター前の場所を開けた。入れ替わるように椅子ごとシロは移動して、モニタに付属のコンピューターを操作し始める。
「新型機か……前にもこんなことあったよなぁ?あの時は今よりややこしくて、そのまんま乱戦に入っちまったけど」
「あん時は確かに厄介だったな。五機の予定が二機しか上がってなかった上に、全部上がる前に一機壊れちまったしな」
どこからともなく小型の記録装置を取り出し、シロは電算機のデータをそれに写し取っていく。見ながらガベルは苦笑し、それからシロに尋ねた。
「で、今現在主力部隊の小隊長殿は、そんなデータとって何する気だ?」
「これは俺の自主学習用だよ。もしかしたら次の異動で二人乗りに載せかえられるかもしれないだろ?そういう時のための」
「えらく殊勝だな、スーパーエース」
「言っとくが、俺だって一朝一夕にそう呼ばれてるわけじゃない。これでも死なない努力はしてる。生き永らえて人生みっちりエンジョイしたいからな」
顔を上げて、シロが笑う。ガベルは苦笑し、それから不意に吐息を漏らした。唐突に、その表情が暗くなる。シロはいぶかしげに、そんなガベルに問いかけた。
「何だ、アル。どうかしたか?」
「いや……ちょっとな。死なない努力ってのをしてても、瀕死になったり死んじまったり、ってネタはここじゃ多いからな。やな事を思い出したのさ」
「やな事?お前にそんな経験あったか?」
「俺じゃねぇよ……というか、そういうネタでいつまでも八つ当たりしてるのがいてな……どうにかならんかと思ってな……」
疲れた顔でガベルがぼやく。シロは目を丸くさせ、それから、
「どうにかって、精神洗浄にでも掛けてやったらいいんじゃねぇの?」
「お前……そいつはちょっと無茶だろうが」
淡々としたシロの声が返ってくる。ガベルもその物言いに流石に気色ばみ、
「そーか?結局俺達なんて兵器なんだから、てめぇの感情に縛られてる余裕なんてねぇじゃん。俺は自分の小隊にそんな下らない奴がいたら、さくさくドゥーローに送って洗脳の一つでもしてもらうぜ。役に立たないヤツはいらないからな」
至極平静に、と言うより殆どものも考えていなさげな顔でシロは続けた。ガベルは眉をしかめるが、逆に、シロは薄く笑っている。
「何だよアル。さえないツラして」
「いや……尤もだとは思うが、お前の言うことは時々恐くてな」
「何が?てめえとその部下効率よく生かすのに、手段もくそもねえだろ?俺は死にたくないし、殺したくもない。だったら最初っから無駄は省くに限る、って言ってんだ。何かおかしいか?」
「いや……おかしかないが」
シロの態度は変わらない。ガベルは黙って苦笑する。何だコイツ、と言いたげに、今度はシロがガベルに問い返した。
「何だよアル、何かあったのか?」
「あったって程じゃないが……お前も知ってるだろう?二ヶ月前の、マチルダが巻き込まれた……」
どことなく言い難そうに、ではあるが、ガベルが口を開く。シロは目を瞬かせ、
「ああ……「教導隊の機体が暴走」って、あのネタか?お守りでついてったマチルダといたもう一人が、って……」
「ナナニエル・クーパー、ってヤツは?」
「まあ……名前くらいは。アレだろ?アークと同期でずーっとメルドラに乗っかってた、って……」
「死んだ人間と、懇意だったらしくてな」
そこまで言われて、シロの目がまた丸くなった。ガベルは困ったように肩をすくめる。
「で、何?マチルダに逆恨みでもしてんのか?」
「そんなところだな」
「メルドラで敵の機体ガツガツヤってるってのに、女ってのは度し難いもんだな」
ほとほと呆れたようにシロが言い切る。ガベルはその様子に苦笑して、
「だが、そいつの気持ちも解らんでもないさ。まだあれから二ヶ月で、気持ちの整理もついてないところに来てマチルダと同じ隊に配属だ。そういうこともなくはないだろ」
「そーか?度し難いと思うね、俺は」
「お前だって、もし俺がキャバリエール辺りに銃殺刑にでもされたら、多少は何か思うだろ?」
「そんなのはそん時にならなきゃ解んねーけど……いつも「お礼参りはやめとけ」って言うのはお前じゃん、アル」
けろっとした顔でシロが言う。ガベルは苦笑を禁じえない。
「まあとにかく、そんな訳で、うちもみんな揃って仲良し子良しって訳にはいってないのさ。今のところはなるべく、二人を刺激しないようにはしてるが」
「けど、そういうのは当人同志の問題で、上司とは言え踏み込めるようなモンじゃねぇだろ」
呆れ口調でシロが言う。ガベルは苦笑のまま、
「そうは言うが、あいつらのオイタは全部俺の責任だ。進退にも関わる」
「進退なんて大して気にもしてねぇくせに、良く言うよ」
「確かに、管理能力のなさを認められて前線に行きっぱなし、の方が俺には向いちゃいるが、俺にも色々思うところがあるのさ」
言葉に溜め息が混じる。シロは振り返り、呆れた吐息と共にガベルに尋ねた。
「何だ、マチルダか?過保護だなぁ、フラレたくせに」
「人聞きの悪い言い方すんな。それじゃあまるで俺が幼女趣味みたいじゃねぇか」
シロの遠慮のない、そして言い放題の言葉にガベルは意を唱える。が、その内容には異論はないらしい。呆れた目つきで、そのままシロは重ねて言った。
「似たようなもんだろ?養子縁組しようとして、真っ向から拒否られて。お前のそーゆーところが俺には解らん。第一子供なんて、いたところで……」
「子供が欲しかったわけじゃない。俺はあいつに家族を作ってやりたかったんだ」
「何だそりゃ。遺してくのがしんどいとか言う理由で結婚も出来ないような男の吐く科白かよ?」
シロの怪訝そうな、それでいて相手を軽蔑しているような表情は変わらない。ガベルは軽く肩をすくめ、参った、と言わんばかりの顔になると、
「確かにな。それは認める」
「ま、俺には殆ど関係ない話だけど」
コンピューターから記録装置を取り外しながらシロが言う。普段と全く変わらない様子の友人の言葉に、ガベルは何も返さない。ただそこで苦笑するばかりだ。
「なーそう言えば、アル」
「何だ、今度は」
欲しいものだけ手に入れたシロはすぐにもコンピューターから離れ、ガベルへと振り返る。馴れ馴れしくも鬱陶しい部分もある友人の言葉に、ガベルは少しだけ疲れた声で聞き返した。どことなく納得行かないようなそんな顔つきで、シロは言った。
「最先端の移動式インテリジェンスシステム搭載の我等が兵器「マシン・メイス」ってな、原因不明で暴走して暴れる事なんて、在り得るのか?」
マデリンの配属から数日。基地での日々はめまぐるしい。見るもの触るもの会う人の全てが始めてばかりの上、イレギュラーとは言え初日の夜から営倉に入れられる忙しさだ。しかしそのめまぐるしさのおかげか、はたまた適応能力に優れているのか、マデリンは尋常ならざる速さでその中に馴染んでいた。今朝は今朝でオフィスにやたらなサイズのバスケットを持ち込んで、それを抱えて自分の席についている。
「何だマデリン、そのバスケット」
「これ?マチルダの朝ごはん。だってマチルダったら朝は食べない、とか言うのよ?そういうの、放っておけないもの」
「俺はどっかの鈍感な奴と違って繊細なんだよ。朝からガツガツ物なんて食えるか」
「マチルダお前、ちゃんとメシ食わないと隊長みたいに大きくなれないぞ?」
「俺は別にあんなにでっかくならなくってもいい」
「って言うか、女の子が隊長サイズに育つのって問題よ、ジェイクさん」
今朝ものっけから、からかい半分に声をかけてきたジェイク・ライト少尉にそんな具合にマデリンは返している。腕白坊主がそのまま大きくなった、というよりまだまだ腕白のままの、二十代の青年は笑いもせず、
「そーか?でも確かにうちの隊長は男でも育ちすぎの部類だよなー……俺も、もーちょっと筋肉つけてもいいとは思うけど、あそこまではなー……」
そう言って自分の、やや細身の体を見る。その様子を少し離れて微笑ましく見ているのはコニーだ。他に、そこにいるのはナナニエルだが、席についてその様子を遠巻きに見ているばかりである。会話に参加する事もなければ、笑うこともない。
「さあ、三人とも。そろそろ時間よ。おしゃべりはおしまいにして」
にこにこの笑顔でコニーが子供達を促すようにする。マチルダは不機嫌そうにそっぽを向き、マデリンはそれを叱るように睨み付ける。ジェイクはへいへいと適当な返事をして席に戻り、その椅子に座りながら、
「時間、はいいけど、後の面子はどーなってんだ?揃って非番か?」
不意に、誰にともなく質問するように言った。言葉にコニーはその目を丸くさせる。
「そう言えば……ニーソン少尉だけじゃなくて副長やオブライエン少尉までいないなんて、どうかしたのかしら」
言いながらコニーは室内を見回す。一応、朝のミーティングは全員が集まる事になっている。勿論、休暇や非番で出勤していない人間はいないわけだが、揃って四人も一度にいない、ということは、戦闘による負傷でもしていなければありえない話だ。最も、現在タイプb小隊の任務は待機のみであり、戦況もさして厳しくはないため、揃っての休暇の申請が出来ないわけでもなかったが。
「何だかんだ言って隊長も他のヤツラもこの程度かよ?スーパーエースが聞いて呆れるよなー」
笑いながらジェイクが言う。無言でコニーはそれを睨みつけた。目を丸くさせ、マデリンは誰に尋ねるでもなく、
「なぁに?みんなおサボりなの?社会人としての自覚とか、ないのかしら?」
「さぁな。フェーンはともかく、他の面子はわかんねーな」
振り向きもせずにあっさり言ったのはマチルダだった。その言葉にコニーが振り返る。
「そうよね……副長まで顔を見せないなんて、もしかして何か……」
「ばかばかしい」
言いかけたコニーの言葉をさえぎるようにナナニエルの声が響く。今朝初めての彼女の声にその場の、マチルダを除く全員が振り返った。
「隊長も副長もそろって無断欠勤なんて、冗談じゃないわ。やってられない」
言いながらナナニエルは席を立つ。焦るように彼女に尋ねたのはコニーだった。
「ナナニエル、どこに行くの?まだミーティングは……」
「どの道いつもと同じで「各自訓練メニューをこなすように」でしょう?わざわざここに集まる意味なんてないわ」
そのままナナニエルは部屋を出て行こうとする。室内に甲高い電子音が響いたのはその時だった。全員の胸元辺りから一斉に発信されたその音にマデリンが驚いて声を上げる。
「え、何?何何?」
「騒ぐなよ、通信が入ってんだろ?」
落ち着き払ってマチルダは上着の胸ポケットに突っ込んであるカード型の通信機を取り出す。マデリンはその様子を見ても訳がわからず、
「え?でもどうして?誰から?」
「全員一斉に呼べるのはここのマスターシステムと、後は隊長くらいだよ。けど普通は部屋の通信機呼ぶだろ……」
そんなマデリンに答えながらマチルダは通信機の電源を切った。プッ、という音の後に電子音のコールが止まる。マデリンは目を丸くし、しながら、
「マチルダ、出ないの?」
「一人出りゃ充分だろ?ほら」
マチルダはそう言って顎でコニーを指し示した。ジェイクもナナニエルも、マチルダと同様に通信機の電子音を切り、コニーを見る。カード型の通信機の回線を開き、コニーはその呼び出しに答えた。回線がオープンになっているらしい。相手側の音声も室内に響く。
「はい、コニー・ライトです」
『おぅ、コニーか。お前今、何してる?』
「何って……隊のオフィスにいますけど。隊長は?」
『俺か?今タイプbのシミュレーターの側だ。そこに他のヤツラもいるか?』
通信の相手である隊長が彼女達の事はほぼ構わない口ぶりで尋ねる。通信機に目を落とすコニーの口許に苦い笑みが上った。
「ええ……ミーティングの時間ですから」
『今朝のミーティングはこっちでやる。つーか、全員今からハンガーに来るように言ってくれ。じゃあな』
言いたいことだけを言って通信は切られた。室内はわずかに静まる。が、
「何、今の……」
「何つーか、一方的だな……」
冷や汗して固まっているのはマデリンとジェイクだ。コニーは苦笑して肩をすくめ、
「一応これも隊長命令よ。ハンガーに行きましょう」
マチルダは無言で眉をしかめている。同じ様にナナニエルも何も言わないままだ。マデリンは溜め息をついて、
「コニーさぁん、隊長ってすっごくワガママじゃない?自分勝手って言うか、人の事、考えてないって言うか」
「あー、俺もそう思うな。部下持ってる人間があんな自分勝手でいいのかよ?なぁ?」
その意見に賛同しているのはジェイクである。二人の物言いにコニーは苦笑して、一応上司のフォローをし始める。
「二人とも、隊長は私達の上官よ。そういう言い方をするものじゃないわ」
「えー、でもぉ……」
「でももくそもねーだろ。ほら、ハンガー行くぞ」
マチルダがそう言って席を立つ。マデリンは目で追い、慌てて立ち上がる。
「ああん、待ってよマチルダってば」
マチルダが無言で歩き出す。マデリンは小走りにそれを追いかける。部屋を出る直前、そのドアの側にいたナナニエルが口を開いた。
「あら。隊長の命令は素直に聞くのね。単独行動が得意な割に」
にやついた笑みが口許に上っている。マチルダはそれを一瞥したが何も言わない。マデリンもそれを一瞬、怪訝そうな目で見るが、足早に部屋を出て行くマチルダを追いかけることの方が重要らしい。普段通りの甘えた声でその背中に言葉を投げる。
「マチルダ、待って……ああっ、バスケット、置いて来ちゃった!いやーんっ」
「先に行ってるからな」
「ダメよ!!あれ、マチルダの朝御飯なんだから。すぐとってくるからちょっと待ってて」
「だからオレは朝は食わねーっつってんだろ!!」
「ダメったらダメ!!絶対食べるの!!」
廊下でそのまま子供二人の痴話喧嘩が始まる。ナナニエルはそれを見ながら眉をしかめ、したたかに舌打ちする。先んじてオフィスを出た二人に続くようにコニーとジェイクも廊下へと出る。
「おーおー、どっちが先輩だか解んねーなー」
「本当ね」
ぎゃーぎゃー騒ぎながらもハンガーに向かっている二人を見ながらジェイクとコニーも歩き出す。その後ろで、しばしナナニエルは先に行く四人を見送っていた。先ほど口許に上っていた笑みはなく、眉間には深く皺が刻まれていた。
新型機のシミュレーターは基地内の他のシミュレーターと違い、原則としてそのデータは配属までは他の隊員達には公開されない事になっている。その為、基地に張り巡らされた模擬戦データの共有システムからも切り離され、他の戦闘データとは一応分けられている。
「要するに……ここでしかこいつの模擬戦は見れない、ってことだ……うっわ……」
そのモニタに、マデリンとジェイクが食いついていた。その半歩ほど後ろではマチルダとコニーが、更に数歩下がったところにナナニエルがいて、画面上で動く白い巨大人型兵器の動きを目で追っている。
『レオン、間合いを取れ。下手に踏み込んだらこちらが先にヒットされる』
『解ってる!てか何なんだよ向こうの動きはよ!エンジン余計に積んでんじゃねぇのか?』
そのモニタにつけられたスピーカーから、シミュレーター内での会話も聞こえてくる。画面上では二機の、同じ姿のマシンが戦闘を繰り広げていた。両機とも手に棒状の武器を持ち、お互いの出方を伺っているようである。
「すごーい……二人で操縦してる……」
聞こえてくる会話とモニタ上のマシンの動きを見ながらマデリンが感嘆の声を上げる。マデリンの意識も視線も、全てがマシンに釘付けだった。未だその機体は目にしていないはいない、が、そこに映し出されたそれは、これから彼女が操る、世界で最も大きくそして精緻な巨大人型兵器である。興奮しないではいられない。
「コニー、俺達もこいつの訓練始めようぜ!いつまでもちんたら筋力トレーニングなんてしてられねー!!」
そのとなりのジェイクもかなりの興奮気味である。コニーはその様子に困ったように笑いながら、
「そんなこと言っても、隊長の許可がなきゃ……」
「ってかなんで俺はダメでレオンやカイルはもう乗ってんだよコイツに!隊長、隊長!」
興奮の余りジェイクが苛立たしげに怒鳴り始める。が、外で叫んでみてもその声が届くわけではない。見かねたのか、制御コンピューターの通信システムを操作して、コニーが試験機内にいると思しきガベルに呼びかける。マチルダは変わらず、その様子を少し離れて見ていた。マデリンはやはり、そんなマチルダに振り向きもしない。更にそれを、ナナニエルは見詰めていた。騒ぐ声も、モニタ上のマシンの姿も、目に入っていないらしい。射抜くように、視線だけで切りつけるように。
「ナナニエル・クーパー少尉?」
そこに、突然声がかけられた。マチルダを睨んでいたナナニエルは過剰に声に反応し、驚いた様子で振り返る。その勢いに、声をかけた当人も驚いたらしい。ナナニエルが振り返ってみたその男は、引き攣った笑みでわずかに後ずさった。
「お、驚かせたかな……ごめん」
見たこともない眼鏡の青年の姿に、ナナニエルはわずかに首を傾げた。こげ茶の縮れた髪を短く切った、その眼鏡の青年は怪訝そうな彼女にぎこちなく笑いかけ、その手を差し出した。
「……貴方は?」
握手を求められているらしい。が、誰なのか解らない相手だ。ナナニエルは警戒心丸出しで青年に問い返す。ぎこちないとは言え、擦れた様子の余り伺えない顔つきの青年は、空のままの手を収めずに答えた。
「エドガー・グリューです。以後、よろしく」
「グリュー……少尉?」
着ている物は自分と同じブルーグレーの詰襟、襟章の形は菱形、線は一本。それを確認してナナニエルは、重ねて問うようにその名を呼ぶ。が、手を出す様子はなかった。背後のそんな様子に気付いてマチルダが振り返る。が、言葉はない。グリューと名乗った男は苦笑いをするとその手を収め、言った。
「恐らく君のサポートになると思う。これからはパートナー、というところだね」
「貴方が……私のサポート?」
何を言われても怪訝そうにナナニエルは答える。彼は困った様子で肩をすくめ、その向こうのマチルダに気付いて目を瞬かせた。
「やぁ……君が、マチルダ?」
目があった途端にそう問われ、マチルダはわずかに身構える。彼はその表情をそれまでよりももっとリラックスしたものに変えると、怪訝そうに自分を見上げているマチルダに歩み寄り、どこか楽しげに口を開いた。
「噂は色々聞いているよ。本当に十二歳なんだ……驚いたな」
何だコイツ、とでも言いた気な目でマチルダは男を睨む。にこにこ笑う男の方はそんなマチルダを目の前にしても怯むことなく、握手を求めてその手を差し出した。
「僕はエドガー・グ……」
「今、聞こえた」
「あ、そう。でもグリュー、って呼びにくいだろ?エドでいいよ」
親しみをこめて親しみやすく親しげに、男は言った。が、マチルダの方は警戒心丸出しでそれに取り合う様子はない。しかし男、エドはそれも構わないらしい。にこにこ笑ったまま、
「君みたいな人と同僚になれて嬉しいよ。ああでも、幼女趣味とかそういうわけじゃないから安心していいよ。僕はそういうのはノーマルだから」
「……誰も聞いてねぇよ」
「そうだね。でも、君ともう一人の十代のパイロットには一応言っておかないと。変な人扱いされても困るし」
いやもう充分変なヤツだと思うけど。思いながらもマチルダはそれを言わず、ようやくおずおずと自分の手を差し出した。微妙な顔つきのマチルダと握手をするとエドはシミュレーターへと向き直り、はにかむように笑いながら言った。
「すごいね、今度の新型は。今までも色々なマシンを見てきたけど……やっぱり、最新型だけのことはあるよ」
「……へぇ」
「しかもその中に二人も、あのエプスタイン主任が専属でマシン整備をするパイロットがいるなんて。やっぱりあの人は新型の専属になるのかな」
「……え?」
エドの表情は好奇心を揺さぶられる少年のようだった。わくわくが抑えられない、とでも言いたげなその横顔から発せられた言葉に、マチルダは眉をしかめる。
「……何だ、そりゃ」
「何って、だってそうなんだろう?君と隊長の機体は、必ずあの、エプスタイン主任が見てるって」
やや興奮気味の顔つきでエドが振り返る。マチルダは渋面を作って、首をかしげるようにしていた。モニタ近くにいた三人がそんな二人の様子に気付いて振り返る。シミュレーター内の音声を伝えるモニタ側のスピーカーからは中での会話が聞こえていた。
『レオン、カイル、一旦中止だ。外に出ろ』
『一旦?一旦じゃなくて完全に中止でも全然平気ッスよ、隊長』
疲労困憊のレオンの声にモニタの側の数人が笑っている。すぐ側であるのにその空間から全く切り離されたようにして、マチルダとエドはその場に対峙していた。
タイプb小隊隊員、エドガー・グリューが初めて自分の小隊に合流したのは、新規結成から二週間が過ぎた頃だった。とは言え、その内示を受けたのはそれより更に十日前で、彼の直属の上司であるところの男とはその時対面し、その後も、機会があれば現状の報告もかねて度々通信などで話はしている。とは言え画像付通信での対話がせいぜいだ。その人となりをお互いに理解、というところにまでは至っていない。ともかく、その日初めて隊の全員が集まる事となった。
「グリュー少尉には今までドゥーローに行ってもらっていた。今日からはこちらに合流するが、機体の納入まではお前ら全員の制御システムのフォローをやってもらう。世話になるんだ、ちゃんと挨拶しろよ」
新型の訓練機前でパイロットスーツ姿の隊長が、早速他の隊員に彼を紹介する。早朝から呼び出されて訓練機に乗っていた三人と、先程呼ばれてハンガーにやってきた五人の前で、エドはにこにこと笑いながらごく普通に挨拶をする。
「エドガー・グリューです。よろしく願いします」
「隊長、いいですか」
その挨拶の直後、挙手をしたのは副長、フェーンだった。朝から付き合わされて訓練機に乗せられていた彼は、白金色の髪を汗でくしゃくしゃにしたまま、真面目な顔で質問した。
「グリュー少尉は、どうしてドゥーローに?」
「それは、僕が自分で希望したようなものだからだよ」
答えたのはその本人だった。フェーンと他の隊員の視線がそちらに向く。何が楽しいのか、エドはくすくす笑いながら、
「元々僕はマシン開発がしたくて機関に入隊したし、正直、そっちの方が得意なんだ」
「しかし……グリュー少尉は以前、ネイヴ隊にいたと聞いていますが……」
「まぁ、後詰要員だけどね」
続くフェーンの言葉に肩をすくめてエドは返す。新型部隊にマシンの搭乗経験が少ないパイロットが起用されるのは稀である。もちろん機関上層部の様々な思惑があるため、例外もない訳ではないが、開発担当者がその機体で戦闘を行なう事は皆無だ。もっとも、機関への入隊希望者の全てがパイロット志望でないことも、適正試験の結果マシンのパイロットに振り分けられてしまう事も、戦闘があまり激しくない膠着状態時にパイロットがマシン開発に携わる事も、ない話ではない。
「何だフェーン、ソフト畑出身のパイロットの腕が心配か?」
揶揄う様にガベルがフェーンに尋ねる。フェーンはあわてて、
「いえ、そういうことでは……」
「そーか?俺は心配だな」
あわてたフェーンを更にからかうようにやたらに楽しげにガベルが言う。それを聞きながらエドはニコニコと笑い、
「まあ、隊長や副長くんほどではないですが、マシンを動かせなくはないですよ?」
「グリュー少尉、僕はそんなことは……」
そのエドの反応に泡を食ってフェーンが更に反論しようとする。その様子を見てニヤニヤと笑い始めたのはレオンだ。
「おーおー、さしもの副長も隊長にはかなわないみたいだな」
「副長だけあって戦闘能力は相当だが、まだ若いからな」
そのレオンのとなりでカイルも人の悪そうな笑みを浮かべる。そしてそのカイルから少し離れた場所にいたジェイクは、何やら眉をしかめて、
「戦闘能力が相当、って、フェーンが?」
そう言って、少々目の付け所が違うが口を挟む。レオンはそれに気付き、
「何だジェイク、お前副長とやりあったこと、ないのか?」
「なっ……なくはねーけど……別にそんな大したモンでも……」
「何言ってるのよ、こてんぱんだったじゃない」
しどろもどろのジェイクにすかさずコニーの一言が突き刺さる。ジェイクはそのまま唸って言葉を失った。
「フォワードがあれでは困るわね。貴方にはもっと精進してもらわなくちゃ」
「うっわ、コニー、見かけによらずきっついなー。これじゃ相方も形無しだぞ」
「いや、確かに二人乗りの場合、フォワードにはしっかりしてもらわないと困る。単独の戦闘なら死ぬのは一人だが、二人乗りのマシンが大破した場合は、同乗者も殺す事になる」
年少をからかい始めたレオンに冷や水の一言を浴びせたのはカイルだ。わくわくしながらジェイクをいたぶろうとしていたレオンの顔つきが、一瞬で苦渋に満ちる。コニーはそれをくすくす笑いながら眺め、気付いているのか否か、カイルは更に相棒を詰った。
「君の場合は無謀な手段に出て、それをまんまと逆手に取られる。サポートはフォローは出来るが、それを予見してブレーキはかけられない。出来るとするなら機体そのものを止める事くらいだ」
「カイル、前から聞いてみたかったんだが、お前、俺と組まされるのがそんなにいやか?」
「いやとかいいとか言う問題じゃない。ここは軍事機関だ、上からの命令は絶対だ」
レオンのいやそうな顔つきとは裏腹にカイルは冷静そのものである。
「ねぇ、コニーさん」
そんな中、マデリンが笑っているコニーに尋ねる。
「あら、何?マデリン」
「思ったんだけど、オブライエン少尉とニーソン少尉って、仲良しよね?」
「っ……ぶほっ」
その一言に吹き出したのはジェイクだった。レオンはぎょっとした顔で、カイルはほとんど無表情でマデリンへと振り返り、
「マデリーンちゃん、突然何を……」
「だって二人とも楽しそうじゃない。本当に嫌いな相手だったら、あたしだったら口も利かないもの」
マデリンの言葉に驚き、いささかショックを受けているレオンの声は震えている。カイルはと言うと、相変わらず冷静な顔つきで、
「そうだな、特に嫌ってはいないな。認める部分も、多いとは言えないがないわけでもないし。」
「カイルお前、そりゃどういう意味だ?」
二人の周りでどっと笑いが起こる。揶揄われていたはずのジェイクも今では「ざまあ見ろ」とでも言いたげな満足げな表情だ。話題の中心から反れてしまった隊長以下三名も、それぞれの表情で二人のやり取りを眺めている。
「いやぁ、新型の精鋭部隊だと聞いていたから、どんな面子かと思ったけど、みんな仲良さそうですね」
「そ、そうですか?仲……いいのかな……」
「まぁ、全員が全員でいがみ合ってるよりゃ、マシかな」
エドの言葉にフェーンは少々困惑し、ガベルは苦笑する。
「グリュー少尉、お前も仲良く……とまでは行かなくとも、なるべく騒ぎを起こさないように頼む」
「了解です。ところで隊長、あのことは、もう他の人達には知らせてあるんですか?」
笑いながら、エドがガベルに問い返す。返されてガベルはその目をしばたたかせ、ああ、と声を立ててから言った。
「そうだった、忘れるところだった」
「あのこと、って……何です?隊長」
フェーンが何気にガベルに尋ねる。答えず、ガベルはそこで騒いでいる一団に声を投げた。
「そこ、いつまでもレオンをいじめてるな。まだミーティング中だぞ」
その声にその場の視線が全てガベルに向けられ、会話が収まる。
「十日後、ドゥーローに出向く事になった」
ガベルの一言に、全員の顔つきが変わる。神妙な眼差しの大人の中で一人、マデリンは首をかしげていた。
「ドゥーロー?なぁに?それ」
「ああ……そう言えばマデリンは初めてだったな」
「元々は対ヌゥイの前線基地があった所で、今はマシン開発や戦闘負傷者の治療施設があるところだよ。湖水地方とも言うね」
マデリンの一言に目を丸くさせたガベルの代わりに、フェーンが答える。その説明が終るより前に、コニーが挙手して質問した。
「隊長、何故私達がドゥーローに?まだ機体すら届いていませんし……」
「その機体の最終調整に来てくれと、開発整備主任からのお達しだとよ」
コニーの質問に答えながらガベルは溜め息をつく。こそこそと小声で話し始めたのはその側にいた男達だ。
「開発整備主任?誰だよ。てかそーゆーのってこっちでやらねーか?」
「開発主任はソレア軍の技師連中だろう。業者も多少絡んでいるはずだ」
「だったらなおの事こっちの方が都合がいいんじゃ……」
「開発主任じゃなくてその補佐のゴリ押しだろ?」
「はぁ?補佐にそんな権限あるのかよ?フツー」
「バカだなジェイク、知らないのか?」
「おいそこ、何をこそこそやってる!」
ガベルの、怒気を孕んだ強い声が辺りに響いた。こそこそやっていた三人、ジェイク、カイル、レオンが恐る恐る振り返る。上司に仁王立ちで自分達を睨みつけられ、三人は即会話を打ち切った。怒っている、というほどではないが不機嫌そうなその表情で、ガベルは続けた。
「今度の新型は今までの機体と違って色々とややこしいんだそうだ。実物で多少の稼動訓練もしたいらしい。一週間ばかし向こうに泊り込むことになる。急な話だが、そういうことだ。以上」
しいんと、辺りは静まり返っていた。ガベルはどことなく慄く目の前の部下を見渡し、眉を顰めて再び口を開く。
「今朝のミーティングはこれで終わりだ。散っていいぞ。それとも、何か言いたいことでもあるか、ああ?」
不機嫌なのは誰の目にも見て取れる。ほぼ全員がしまったと言わんばかりの顔つきの中、マデリンは首をかしげ、エドはにこにこ笑い、話の輪から外れていたマチルダは呆れ顔で困惑している数人を眺めていた。
「ほら、とっとと散りやがれ!カイル、レオン、お前らも後は好きにしていいぞ」
苛立たしさ丸出しで言ってガベルは一人その場を離れる。マデリンはそれを見送ってから、離れていたマチルダの元に駆け寄り、不思議そうに尋ねた。
「なぁに、隊長、どうして怒ってるの?」
「さーな。さっきの三人が怒らせたんだろ」
わざとらしくハハン、とマチルダが鼻で笑う。そしてどこか疲れた顔で何気に、シミュレーターの白い箱を見遣る。
「マチルダ?」
「……腹減った」
唐突にマチルダが言う。マデリンははっと我に返り、
「お腹空いた?何よマチルダ、朝ご飯、食べないって言ったじゃない」
「うるせー。朝っぱらから疲れたんだよ、文句あるか?」
「そんなの、ちゃんと食べてこないからでしょ?本当、世話が焼けるんだから。いいわ、あたしの持ってきた朝御飯、食べて」
「お前の持ってきた葉っぱなんか食えるか。食堂行くぞ」
「葉っぱ?サラダでしょ!って言うか、サラダも食べなさいよ!大体サンドイッチのレタスも食べないなんて、絶対偏食よ。パイロットって体力仕事なんでしょ?ってマチルダ、待ちなさいよ!」
固まっていた他の隊員達が散り散りになるのを見るようにマチルダが歩き出す。マデリンはキーキー声を立てながら、そんなマチルダの後を追う。シミュレーターの前からその殆どがいなくなった後、残っていたのはナナニエルとエドだった。ナナニエルは歩き去ったマチルダを見送るようにして睨んでいたが、姿が見えなくなるとそこから歩き出す。
「後十日で本体とご対面、なんだけど、二人乗りの訓練はどんな具合?」
その背中に向かって、エドが声をかける。歩くのをやめ、ナナニエルは振り返った。エドはにこにこと笑って、自分を睨むようにしているナナニエルに、重ねて質問した。
「隊はみんな仲がいいけど、君とマチルダだけどうして離れていたの?」
「……別に、理由はありません」
「誰も聞いていないんだから「ばかばかしくて付き合っていられなかった」って、言っても構わないよ、クーパー少尉」
そういうエドの表情はやはりにこやかで変わらない。彼を睨むナナニエルの表情が更に強ばる。エドはわずかに笑みを解き、困ったように肩をすくませた。
「困ったな……僕は君のサポートだそうだから、最低でも、君とは仲良くしたんだけど……」
この男は、何だ。ナナニエルはそう考えていた。エドはもう一度、人当たりのよさげな笑みを浮かべると、
「ところで、二人乗りの訓練はもうしてるのかい?クーパー少尉」
ミッシュ・マッシュにおけるマシンメイス開発、整備、管理担当者も基本的に機関構成員である。製造には少なからず業者が介入するが、その業者も公社という形式で公的機関の一部になっている。特務機関の施設で開発されたマシンは一般市民の生活している「居住区」と呼ばれる地下都市にある公社で量産されるが、新型機に限っては開発施設でハンガーアウトされ、配属後の戦闘効率などを考慮した後に量産化の可否が決定される。マシンは戦闘兵器であると同時に巨大な精密機械でもあるため、その整備、管理は細心の注意を払って行われる。エンジニア達はそのためにパイロットと同じく養成機関を経てその任に当たる。スーパーエリートと呼ばれるパイロットに比べてその待遇は低いが、機械に関して言えば、彼らを越えるエキスパートは滅多に存在しない、と言っても過言ではない。
「整備主任伍長?伍長さん?」
ハンガー最奥のシミュレーターの側でマデリンがそう言って首をかしげる。その白い箱に入っていい、と言われたのは、その日の午後のことだった。ドゥーローと呼ばれるミッシュ・マッシュの研究施設兼南国境基地に、そのマシンメイスを「引き取りに」行く前に、全員が新型の基本操作を身につけなければならない。因みにマシンはパーツに分けて運搬される事もあるが、その移動方法は主に「担当者が操縦」となっている。何しろ巨大な重機器で、その上運搬用トレーラー類を使用するのに比べて手間も燃料代も少なくすむ。前線近くの異動には敵機に発見される危険性も高いが、その発電システムのおかげで内地においてはどんな移動手段よりもローコストだった。
「俺も良く知らないけど、すんげー怖くて美人らしいぜ?トリオGの誰かと喧嘩してハンガーで絶叫したとか……」
マデリンと同じく、ようやく新型機のシミュレーションを許可されたジェイクが言う。マデリンは首をかしげたまま、
「なぁに?女の人なの?」
「まーでも、美人っつっても、三十すぎてちゃオバハンだよなー……」
言いながらジェイクが笑う。ちなみに、機関構成員の男女比は配属先に関係なく六対四で、女性パイロットも女性整備担当者もごく自然に働いている。任務に性差は関係ない。が、
「ジェイク、下手な発言は慎みなさい。セクハラで特別倫理委員会にかけられても知らないわよ」
「って、それがセクハラだと思うけど……」
諸般の事情のため、機関には倫理機関が二つ設けられ、その一方が主に女性の性差問題を扱う「特別倫理委員会」と呼ばれている。
冷ややかなコニーの言葉に不服そうにジェイクが呟く。マデリンは首をかしげたまま、
「でも、女とか男とか、ここって全然関係ないんでしょ?どういう人がどんなお仕事してたっておかしくないわ」
「表向きにはそうだけど、そういうのも倫理的にどうか、って言う人もいるのよ。戦況が落ち着いている時には前線には女性構成員は余り配属されないし、体調が戦闘に支障を来たす場合には、無理やり休職させられたりするし……ある意味、有り難い事だけど」
コニーが少し困ったようにマデリンに言う。マデリンは首をかしげたまま、
「体の具合?でもそれって本人の管理がなってないからでしょ?ちょっとくらい頭やおなかが痛いからって……」
「ああ、そうじゃなくて。おなかに赤ちゃんが出来たりした場合よ」
コニーのその言葉にマデリンは驚いたような顔になる。見ながら、コニーが言葉を続けた。
「機関構成員は原則として除隊はありえないから、出産や育児に関わる期間は休職扱いになるのよ」
「えっ、パイロットの人って、お母さんになっても仕事やめられないの?」
「パイロットじゃなくて、機関構成員の全部がな」
いつの間にかマデリンの背後にいたマチルダが不機嫌そうな声で言う。マデリンは振り返って、
「マチルダ、いたの?」
「いたの、じゃねぇだろ。お前、先にこっち来てセッティングしとくとか、言ってなかったか?」
言われて、マデリンはその目をしばたたかせる。そして、
「やん、忘れてた!ジェイクさんに会って話してたから……ごめんマチルダ、今すぐ準備するから!」
言うとあわててシミュレーターに向かって駆け出していく。マチルダはむっとした顔のままそれを見送る。側ら、ジェイクが眉をわずかに寄せて、
「何だよ、マデリン。全部俺のせいか?」
「半分くらいはそうじゃないの?ほらジェイク、貴方も訓練するんでしょ?」
コニーが困ったように言う。が、ジェイクは振り返らず、
「って、サポートの支度が出来なきゃフォワードなんて座ってるしかできねーじゃん。俺達の方はどうなんだよ?コニー」
「こちらは準備万端。だけど……」
コニーはそう言ってかけて言ったマデリンを見る。マデリンは白い大きな箱を開けるも、
「マチルダぁ、これ、始動キーってどこにあるのー?」
それを覗き込んでそんな風に叫んでいる。コニーは軽く肩をすくめると、
「ちょっと見てくるわ。マチルダ、もう少し待ってて」
そう言ってマデリンのいる訓練機に駆けていく。マチルダはむっとした顔でコニーを無言で見送り、ジェイクはそれをちらりと見て言った。
「何だよ。まだ二人乗りが気に入らないのか?」
「うるせぇ」
「お前さあ、配属からもう半月以上だぞ?いい加減その辺、腹くくれよ」
「スーパーヘボに言われたくねぇよ」
マチルダは全くジェイクを見ない。ジェイクはその言葉に憤るも、すぐに嘆息して、
「あーあー、俺は確かにお前からしたらヘボヘボパイロットだよ。なんで新型に呼ばれたかも解んねーしな。けどお前よりずっと自覚はあるぜ?機関構成員、っつー」
「マシンに乗ってバカスカ戦闘するってのが、何だってんだよ」
突然マチルダはそう言って鼻先で笑った。ジェイクはその奇妙な笑みを見るが、何も言わない。
「あんなでっかい機械に乗ってとにかく壊して、だから何だってんだよ。自分もいつ壊されるか解んねぇのに、あんなのに乗せてもらえるからって……なるようなもんかよ?」
「……何だ、それ」
何気にマチルダの笑みが自嘲気味に見える。思いながらジェイクが問いかけると、マチルダは振り返らずに言った。
「そうらしいぜ?あいつ」
「マデリンが?マシンに乗りたいって?」
「お気楽、っつーか……バカにしてんだろ?俺はそーゆーガキと組まされるんだぜ?お前だったらそういうの、気分いいか?」
言われて、再びジェイクは黙る。そして僅かの間の後、困った声で言った。
「よく解んねーけど……志望動機なんてそんなもんだろ?俺だって地下にいた頃、そんな大層な事考えてなかったし……」
「あいつは地上居住者だぞ。しかもオヤジは大隊長だろ?」
「てか……俺はお前の方が何か変な感じがするけど」
子供らしくない顔つきのマチルダに、ジェイクが言った。マチルダは驚いたように振り返り、困惑顔のジェイクの言葉を聞く。
「何つーか……お前のそれって、「何強情になってんだ」って感じ……」
「うるせぇ!ランク下のヘボが知ったような口利くな!」
突然、火でもついたようにマチルダが怒鳴る。ジェイクは驚くもすぐに憤慨して、
「なっ、お前!言うに事欠いてっ……」
「悔しかったら俺に勝ってみろよ、スーパーヘボヘボパイロット」
言うだけ言ってマチルダはジェイクの側を離れる。ジェイクは怒りと驚きで固まったままそれを見送り、
「なっ……何だよ……なんで俺がそんなこと……」
それは怒りというより困惑の声だった。やがて、呆然とマチルダを見送るジェイクの元に再びコニーがやってくる。
「お待たせ、ジェイク……ジェイク?どうかしたの?」
マチルダを見送るジェイクにいぶかしげにコニーが問いかける。ジェイクはすぐにも眉をしかめ、
「何でもねーよ、今行く」
そう言葉を返したが、しばしの間コニーへと振り返ろうとはしなかった。
三日後、新型の訓練機前では。
「あーもーとれぇ!!とろくせえ!!何やってんだこのバカ!!」
「バカ?バカって何よ!!今のはそっちが悪いんでしょ?急にあんな風に動いたら……」
「そこをカバーすんのがお前の仕事だろ!!マシンがいちいちヨタヨタしてたらすっ転ぶだけで壊れちまうだろーが!!バランスくらいちゃんととっとけ!!」
ぎゃんぎゃんと朝早くから昼過ぎまで、ミッシュ・マッシュ最年少コンビが、口論と言えば聞こえがいいがケンカのし通しであった。基本稼動をさっさとマスターしてしまった二人は訓練二日目から戦闘シミュレーションをし始めたのだが、単独での戦闘と違って勝手が違いすぎるため、色々の支障が出ている模様である。
「まー確かに、二人乗りだと歩くのにも結構気ィ使うよなー」
「サポートがな」
傍から見ているのはレオンとカイルで、普段と変わらない会話を繰り広げている。そこへひょっこり顔を出したのはエドだった。隊への合流から三日、技術畑出身のパイロットは人見知りをしない性質なのか、すんなり隊に馴染んでいた。
「いやぁ、流石だなぁ、あの二人は。新型のシミュレーションを始めてまだ日も浅いって言うのに、もう模擬戦までしてるんだねぇ」
感心しきりのエドの声にレオンとカイルは振り返る。そして、
「そういうグリュー少尉はどうなんです?ナナニエルとは……」
「うん?ああ、その辺は秘密だよ」
「秘密?」
何気ないレオンの問いかけに、エドは振り返りもせずに返す。秘密だと言われて一緒にいたカイルも目を丸くさせるが、エドは振り返らないまま笑って、
「ここでもし「順調だよ」とか「イマイチだね」とか言ったら、対戦する時の楽しみが半減だろう?だから秘密」
「対戦する時の、楽しみ、ですか」
エドの言葉をそのまま繰り返すようにカイルが言う。エドは笑って、
「そ。何事も、知ってればいいって訳でもないし」
「いや、何かそれは違う気がしますけど」
眉をわずかにしかめて言ったのはレオンだった。その顔つきを見て、あはは、とエドが笑う。
「いやぁ、クーパー少尉は結構プライドも高いし、扱いにくいけれど、向上心も強いし、何と言っても自分に素直だからねぇ。ランク上の君たちに自分の程度が知られる、なんて、恥ずかしいと思うんだよ」
「はぁ……そーゆーもんスかねぇ……」
はぐらかされているのかぼけているのか、エドの言葉の意味は解り辛い。レオンはそんなことを思いながら首をかしげ、カイルはエドに向かって言った。
「自分のパートナーを扱いにくいと断言するのは、どうかと思いますが」
「確かにそうだね、問題かもしれない。でもパイロットとして信頼できないとは言っていないし思ってもいない。第一僕と彼女は会ってまだ三日だよ?いいところも悪いところも、これから見えてくるわけだから」
「しかし、第一印象が「扱いにくい」というのは……」
「そういう君は自分の相棒をどう思っているんだい?オブライエン少尉」
意見の途中で問われ、カイルは一瞬閉口する。そしてちらりとレオンを見、
「……何だよ」
見られたレオンはいぶかしげにカイルを見返す。少しの間何やら考えて、それからカイルは言った。
「任務に差し障りがあります。コメントは控えさせていただきたい」
「カイル、そりゃどういう意味だ?」
エドは何も言わずに楽しそうに笑っている。カイルはほぼ無表情で、
「君の聞いているところで下手に発言は出来ない。そういうことだ」
「だから何が「下手な発言」なんだよ、え?」
「まあまあ、ニーソン少尉。そんなに彼に絡まないで。僕達もお互い人間なんだから、思うところは色々あるって、そういうことさ。例えば、クーパー少尉のことにしても、実力もあるし強い意思も感じられるし、感心できる部分は沢山あるけど……そうだなぁ、こういう職についているそれ以上に、何か気負ってる感じがあって、扱いにくいと言うか、困っていると言うか……」
にこにこ笑いながらエドが言葉を紡ぎ出す。カイルは先ほどはぐらかされた何かを感じ取り、その目つきを変えてエドに問う。
「気負っている感じ、ですか?」
「うんまあ……気のせいかもしれないけどね」
エドは軽く肩をすくめて返し、まだ目の前でぎゃんぎゃんやっている二人を見遣った。
「しかしあの二人は本当に仲がいいねぇ。レイシャ少尉はまだ任官から十日くらいなんだろう?訓練機の稼動データも見せてもらったけど、二人ともこの短期間であっさり操縦をマスターしてる。恐れ入るよ」
言いながらエドは再び二人を見遣る。その恐れ入られている二人はというと、
「あーもーうるせぇ!!文句つけるんだったら俺が満足できるサポートしてからにしろ!!このグズ」
「だっ、誰がグズよ!!昨日だって隊長が言ってたじゃない!!二日でこれだけ動けたら上等だ、って」
「そりゃ凡人相手の場合だろ。俺様は機関内のスーパーエリートの中でも超のつくスーパーエース様だぜ?戦績ランクEのお前といっしょにすんな」
マチルダは辛らつな言葉をこれでもかと言わんばかりにマデリンに投げつけ、ぷいっときびすを返して歩き出す。マデリンは怒りながらも、
「ちょっ……ちょっとマチルダ、どこ行くのよ、待ちなさいよ!」
「うるせぇ。どこに行こうが俺の勝手だろ」
「何言ってんのよ、今は訓練中でしょ!勝手な行動は慎みなさいよ!って……待ってってばぁっ」
そう言って結局強く出きれずにマチルダの後を追いかける。その様子に、呆れた意見を述べたのはレオンだった。
「何だあのお子様……自分で「超のつくスーパーエース」とか言いやがって……ちょっと調子に乗りすぎじゃねーのか?」
「うーん……そうだねぇ……あの実力は確かにスーパーエース級ではあるけど……アレン少尉って、いつもあんな風なのかい?」
「いや、そんなことは、ないと思いますが」
レオンに続くエドの言葉に返したのはカイルだった。エドは目を丸くさせ、無言でカイルを見遣る。
「あの年齢であの気性ですから、色々と言われているようですが……あそこまでのことを言うのは、見たことがありません。仮にあれが本質だとしても、実力は釣り合っています」
「確かにあいつのレベルはそうだけどよ、所詮十二のお子様だぜ?天狗になってもおかしかねー、てか、ならねー方がおかしいだろ」
カイルのその言葉にレオンは真っ向からの対立意見を述べる。エドはその目をしばたたかせると、
「そうだねぇ……どっちの言うことも、尤もって言うか……天狗にならない方がおかしいけど、それでも変な感じはするよねぇ……」
そんな風に行って腕組みし、どこか困った顔で首を傾げた。
「ちょっとマチルダってば、どこ行くのよ、待ってよ!!そんなに怒る事ないでしょ?」
ハンガーを出る。基地周辺は湿気の少ない、岩砂漠にも似た気候である。埃っぽく乾いた屋外を基地の本部棟に向かって歩くマチルダを追いかけていたマデリンは、その手を捕まえてその場で強く引いた。画、マチルダは簡単にそれを振りほどき、
「うるせぇな、触んな!!」
「さわっ……触るなって何?って言うか、どうしてそんなに怒るの?そりゃ、あたしはとろいし鈍いし、まだまだマチルダの動きについていってないわ。でもさっきのは悪いの、そっちでしょ?いきなりあんな……」
「うるせえしうぜえから言ってんだ、黙れ」
振り返らず、マチルダが強い声で言った。マデリンはと言うと、
「うるさいのはどっちよ!急に怒ったりして!って言うか何?マチルダ、機嫌が悪いの?」
その様子は訓練前から少々おかしかった。確かに出会ったその日からケンカの挙句に上官に無断で私闘まがいの模擬戦、という派手なこともやらかしている。お互いに気が長かったり穏やかな性質ではない。が、こんな風に怒られるのは心外だし、マデリンの腑に落ちない。
「それとも、あたしが何かした?何か気に入らないの?だったらそう言えばいいでしょ?訓練中にあんなことするなんて、そんなの……」
「お前のことなんか最初から気にいらねぇっつってんだろ、わかんねーのかよ?」
マチルダは立ち止まってはいるものの、振り返ろうとはしない。マデリンはその言葉に露骨に渋面を作り、
「マチルダ……あたしの事、嫌い?本当に嫌いなの?」
「つーか……鬱陶しいんだよ、お前みたいなの」
苛立つ声でマチルダが言う。マデリンは泣きそうな顔になりながら、自分に背を向けたマチルダになおも詰め寄った。
「ねぇ、あたしのどこがいや?とろいから?ばかだから?でもきっと直すから!マチルダみたいになれるように頑張るから!だから……お、怒っても、我慢するから、そんなこと……」
「だから、そーゆーのがうぜぇんだよ」
疲れた声で言って、マチルダは肩越しにマデリンを見る。驚きと哀しみの混じった表情で、マデリンは自分を見るその目を見、息を詰めた。声と同じく疲れた目で、マチルダは言葉を続ける。
「お前みたいなの、鬱陶しいんだよ。ちょっとマシンの操縦に向いてるからって、そんでスキップか何かしたからっていい気になって、褒められて浮かれやがって。お前、まともに叱られた事なんて一ペンもないんだろ?」
「え?」
「誰かから嫌われたり、憎まれたり……そーゆーのも全然ないんだろ?それでウキウキして戦争に行く気なんだろ?」
そう言うと、マチルダは再びマデリンに背を向けた。そしてそのまま、ゆっくりと歩き出す。
「まっ……マチルダ?」
「俺はそんなやつと心中する気なんてないからな。お前とは絶対乗らない。絶対にだ」
「で、でも!!き……昨日はちゃんと訓練したじゃない!!いっ……今までだって毎日、一緒に訓練してたじゃない!!あたしが頑張るって言ったら、勝手にしろ、って、言ってたじゃない!!」
立ち止まったまま、追いかけられずにマデリンはその背を見送る。マチルダはやはり振り返らず、歩みも止めず、
「そーゆーのも、もう嫌なんだよ。好きにさせとけばチョーシこきやがって」
マデリンはその場に固まっていた。マチルダはそのまま歩き去る。確かに、今までもさんざんうるさいだの何だのと罵声は浴びせられてきた。そのたびにマデリンも怒鳴り返して、嫌いだ何だと言い返してきた。掴み合いのけんかにはならなかったが、いつでもそれは長引くことなく何とか収まっていた。マチルダも、笑うことも余りなかったしいつも不機嫌そうではあったが、ここまで自分を拒む事はなかった。なのに今日は、聞く耳どころかこちらを見ようとさえしない。何だかいつもと違う。それとも、これが本当のマチルダの気持ちなのだろうか。こちらが本心で、今までのことは全部、嘘だったのだろうか。
「まっ……マチルダ!マチっ……」
呼びとめようとした声は途切れる。その場で震えて、マデリンは進むことも戻ることも出来なくなっていた。どうしよう、どうしよう、そんな思いだけが体中を駆け巡る。けれど状況が変わるわけでもなく、ただマチルダの背中がそこから遠のいていくばかりだ。
「ま……マチルダ……」
「あれ?マデリン。どうしたんだい?こんなところで。マチルダに置いて行かれたのかい?」
背後から声がする。マデリンは恐る恐る振り返り、見つけたその人物の名前を恐々と呼んだ。
「ぐ……グリュー、少尉……」
エドの顔を見たとたん、マデリンの目からどっと涙が溢れ出す。エドは流石に驚き、泣き出すマデリンに更に歩み寄った。
「ど……どうしたんだい?彼女に、何かひどいことでも、言われたの?」
そのままマデリンはわあわあと声を上げて泣き始める。エドは困惑の表情で、そんなマデリンをただ見ていることしかできなかった。