へぼ

の歴史

へぼと言う一説

「本草綱目啓蒙」(1829年)として江戸時代に、小野欄山がまとめて書き上げた本です。今風で言う植物を主とした動植物図鑑であります。その中に「閉防=へぼ」という記述があります。

「想山著聞奇集」(1830年)は三好想山が江戸時代にまとめ上げた本です。内容はいろいろな奇行を取り上げ紹介しています。その中に、美濃国や信濃国では蜂の子を醤油で味付け、飯にまぜる「へぼご飯」が紹介されています。「風味は油多にして、香ばしく甚だうまきものといへり」とあります。美濃国郡上藩では、江戸詰めの藩士たちが、藩邸(青山別荘)の庭の蜂を掘って食べていたと紹介されていました。

蜂を食べる

蜂神社

蜂神社の由来は、この地は蝦夷の集落があったが、大和朝廷の支配下に入った後は安陪氏がおさめ居城を構えていたと伝えられています。そしていつのことかわかりませんが、この地で南から攻めあがった中央軍が激しい蝦夷の抵抗に遭い、前進を阻止されてしまったので、夜陰に乗じて蜂の群れを使って中央軍は勝利しました。勝利をおさめた中央軍は、その蜂の死骸を集め丁寧に葬って蜂神社を建立したそうです。 
蜂神社の場所 岩手県紫波郡紫波町 「陣ケ丘」