−カムナガラ−
街の片隅にその小さな社はあった。あまりにも古く、いつごろからそこにあるのかわからない石造りの小さなそれは、街の数少ない緑の中にひっそりと、まるで時間の流れから取り残されたようにぽつんと佇んでいた。周囲は公園と、公立中学の敷地だ。グラウンドはアスファルトに封じられてはいなかったが、踏み固められた土は白く、風で砂ぼこりが舞う。潤いは、その周囲に保存される形で少し残っているだけだ。けれどそれでも周辺では一番緑が残っている。それはおそらくその場所が全き緑の頃からそこにあったのだろう。滅多に人の訪れない草むらの中、ひっそりと音もなく、存在の有無も感じさせぬまま、ただひっそりと。 宗教法人八百万神祇会、総合宗教相談事務所、というのがその小さなオフィスの名称だった。住居ビルと呼べる様なさして大きくはない鉄筋の建物の三階部分の、手を加えれば十分住居になりえる場所にそれはあった。その、いかにも予算枠の小さい中から作られたと思しきプレートが入り口ドアにかろうじて引っかかっているおかげで、そこが空室でないことは見て取れる。コンクリートの階段と廊下を渡ってたどりつく一枚の薄汚れた扉は、それでも一応れっきとした事務所であった。請け負っているのは宗教問題全般、主に、霊感商法の対処方や、裁判の際の弁護士の斡旋、その他。とは言えその幅は広く、処理する問題もまた多い。しかしその場所は単なる出先機関であり、実際動くのは事務所員ではなく、ほとんどの場合がその母体組織である宗教団体の、対処係であった。 「……あー、うぜぇ」 とりあえず事務所の体裁を整えた室内で、煙草をくゆらせながら、その男は小さくぼやく。事務机の上に足を投げ出す格好で、くつろいでいるのかだれているのか解らない。男がそう言って多大なため息を吐き出すと、白い煙が辺りに立ち込め、視界がほんのりかすんだ。目に映るのは薄闇のかかった、毎日これと言って変わらない室内ばかりだ。事務机が三台、衝立の向こうには応接用のソファ、その向こうには大きな書棚。手前には靴下を履いた自分の足。そのとなりに山盛りの灰皿と、足元にはスリッパ。自分はいったい何をしているのかと自問自答したくなってもおかしくはない。彼は退屈だった。とにかく退屈だった。 「うぜぇ、じゃなくてさ」 その衝立の向こうから、もう一つ、やはり男の声は響く。彼はチ、と小さく舌打ちし、吸っていた煙草を山盛りの灰皿の縁に押しつけてその火を消した。 「ちょっとは働いたらどうなのさ?ここは職場で、君は所長なんだから」 ひょっこりと、衝立の向こうからその男が顔を出す。ややウェーブのかかったほんのり明るい色の髪と二重の琥珀の瞳、典型的な日本人、しかも優男の類に入りそうなタイプだ。ワイシャツにカーキーのスラックス、プラスサスペンダーという出で立ちの青年は、普段は人のよさげであるその顔をやや不機嫌そうに歪めて、そこから彼をにらみつけた。事務机の男は、聞くなりけっ、と吐き捨て、 「バカヤロー、俺は寝不足と二日酔いなんだ。そんな体力どこにあるってんだ?」 「自業自得だよ。何、また昨日飲んでたの?」 あきれ顔で、ややもするとファニーフェイスのサスペンダーが問い返す。事務机の青年は、いかにも好青年スタイルの彼とは対照的に全身黒ずくめで、おまけに今時流行りそうにない、黒のサングラスをかけていた。年がら年中真っ黒で、他に芸がないよね、とは、ソフトスーツの似合う優男の弁である。黒ずくめは、また、という彼の言葉に眉をしかめ、苦々しげにつぶやく。 「俺にだってつきあいってもんがあるんだ。昔のツレに実に七年ぶりに会ったんだぜ?」 「ああそう。けど今は勤務時間だから。まじめに働いてくれない?所長」 最後の言葉にことさら力を込めて、好青年はいやみったらしく彼から視線を反らした。黒ずくめはむっと唇を尖らせ、 「って言うけどな、仕事なんかあるのかよ?」 「あるだろ?君が昨日もらってきた仕事が」 「昨日?俺が?何の話だ」 黒ずくめはサングラスのしたの目をぱちくりさせ、だらしなく投げ出されていた体をそっと起こす。 「またまた。そう言うジョークで僕をわざと怒らせようとして。変なところがお子様なんだから、君は」 「なんで俺がそんな面倒な……」 「それとも、本気で僕を怒らせたいのかなぁ?神和くんは。で、背中から刺されたりしたいんだ?ふーん、物好きだねぇ」 好青年は言いながら応接ソファのブースから、事務机の前へと移動した。手には書籍と紙束が一抱え、こぼれ落ちそうになりながら運ばれてくる。どさりとそれを山盛りの灰皿の隣に置き、にこやかに笑う姿はまさに王子様だった。もっとも、それは彼を外見だけで評する時の言葉の一つであって、中身が伴っているとは言えなかったが。 「ほら神和くん、今朝言ってたじゃない。昨夜一緒だった高校の頃の知り合いが、職場でどうだとか。ざっとその辺調べてみたから、資料に目でも通してよ。ね」 にっこり、変わらず彼はその笑顔を崩さない。黒ずくめの男はその顔を恐る恐る見上げて、暫しその場で凍りつく。総合宗教相談事務所、所長、神和辰耶。黒い靴を履いたその足が下ろされた、散らかった事務机の隅にかろうじて乗っている小さなプラケースの中、そこにいるサングラスの黒ずくめの為に作られた名刺には、そう書かれてあった。 宗教法人八百万神祇会は、神社神道に則った新興の宗教団体である。神道とは、日本に古来からある自然崇拝から発生した民間信仰から始まる宗教で、基本的には教義を特別に持たず、多くの自然神を崇めることだけで半ば成り立っている。その信徒は氏子とも呼ばれ、同時に仏教徒であることも多く、特別強い宗教的拘束力も持たなければ、信徒の定義もはっきりとはしていない。八百万神祇会もそうした神道のスタイルを保ち、昨今の宗教団体の中でも無名かつ、小規模である。彼らは元々宗教団体というより神社の互助会のようなものであった。その活動規模の拡大と資金確保のため法人として運営するにあたって法人格を得た、というのが本当のところだ。主な活動は神社の互助会の別名よろしく、地方の小さな神社などの儀式、祭礼のサポートで、収益を得るために宗教法人にはつきものの冠婚葬祭、そして最近多発している宗教詐欺事件などの対処のための総合相談などを展開している。その延長線上にはもちろん霊障対策などもあった。その窓口の一つが総合宗教相談事務所だ。事務所では宗教に関連する全ての相談を受け、本部にある対処係と連携して問題の解決を行なう。時にそれは本物のオカルトにぶつかることも多々あり、もちろん彼らもそうした事象に慣れていた。同時に、彼らはその専門家、でもある。 「高校の時の課外クラブの先輩でな。今じゃ中学で美術の常勤講師だと」 「へーえ……カタギの知り合いって言うから、どういう人かと思ったけど。カタギだね」 昼下がり、そろそろ二日酔いの余韻が薄れてきたらしい黒ずくめ、神和は、たった一人の部下であるサスペンダーの優男、御幣鼎とともに、市街地だというのにやけに緑のあふれるその場所を歩いていた。ざくざくというのは伸びた雑草を蹴散らす音だ。すそが汚れるなぁ、とぼやいたのは御幣で、神和はそういったことに頓着していない様子だった。初夏だと言うのに頭の天辺から足の先まで真っ黒の黒ずくめの上、その黒い髪を肩ほどまで伸ばして結わえた暑苦しい格好。だと言うのに、平気で辺りを闊歩している。その姿でサングラスである。怪しいことこの上ない。 「でも中学で霊障なんて、ありがちだよね。あれ?ハナコさん、だっけ?」 小首を傾げて御幣がつぶやく。無視して、神和は草むらをずかずかと歩いた。元は城跡だったらしいその辺りは、殆どが公園として整備されていた。もちろん文化財としても保存されているため、後からあまり手も加えられていないらしい。立入禁止の金網の中は雑草が生え放題で、これで管理地か、と思わせる風情だが、その証拠と言えばそうだった。時折生えている桜の木の下は、さかりには休みごとに人だかりができるのだろう。その辺りはさすがに、微妙に「管理」されているらしい。一瞥して神和は苦笑する。桜の下は、元は神隠しの最も起こりやすい場所として人から畏れられていたのだが、今の世ではそういうことはないらしい。死骸や鎧を埋めた上によく植えられた、というのも、今ではロマンとしか言いようのない過去のことだ。そのまま、二人は下草の生える道を突っ切って歩く。 「けど、どうして正規のルートで来ないのさ?ここ、明らかに獣道だよ?」 スラックスの裾をしきりに気にして御幣が問いかけると、事もなく神和は答えた。 「うるせぇ。迷ってんだから静かにしろ」 「威張って言うことじゃないよ、それ」 そろってそこで立ち止まり、神和はわずかに押し黙った。が、すぐにも歩き出す。御幣は二、三歩彼を見送り、変なの、と首をかしげ、それから小走りにその背を追い始めた。 来客用玄関、というその先から校舎内に入ると、事務職員と思しき中老の男が姿を現した。何か御用ですか、と問われ、神和がサングラスを外してそれに答える。 「山名先生に取次いでもらいたいんですが」 事務職員は一瞬息を飲み、間を置き、それから、どこかあわてたように少々お待ちを、と言い残してその場を後にした。背後の御幣は玄関先を見回すようにしていた視線を彼へと向け、あきれの吐息とともに言葉を紡ぐ。 「……女の人だったら良かったのに」 「あの事務のオヤジが?」 「君の方。男の人まで困らせちゃう美貌?」 神和はその眉をしかめて振り返る。笑いもせず、御幣は言葉を続けた。 「僕なんかは見慣れてるからいいけど、そのうち、男でもいいからお願いしたい、とかいうのに巡り会っちゃうんじゃない?」 切れ長の瞳と、まっすぐに通った小さめの鼻。肌の色はアジア人のものとは思えないように白く、しかし病的な色ではなかった。瞳は、灰青とでも言うべきか。日本人の顔と一口に言えた作りではない。あごは細く、首元も青年男性を思わせないほど、やはり細い。ニヤリと神和が笑うと、異様なほど整った口元が、歪む。 「そういう顔してもジョークにもなんないし」 「ほっとけ」 冷たい御幣の言葉に眉をしかめ、さっさと神和はサングラスをかけ直す。眉間に覗くしわをチラリと見やって、微かに御幣が苦笑を漏らした。この、一応上司とはつきあいが長い。ほとんど幼なじみの域だ。おかげで、 「やっぱり人間って外見で判断しちゃいけないよねぇ。大和絵の美人画から出てきたような人間が、君だもんねぇ」 「どういう意味だ、そりゃ」 「そのままだよ。美人ほど恐い……でも、美人ほど日々危険。生きてるものに好かれるだけならまだしも、生きてないものにも好かれるのはさー」 冗談めかして御幣は言う。眉をしかめ、神和はそっぽを向いているばかりだった。やがて、廊下に足音が響く。ぺたぺたと明らかに安物のスリッパの音を立ててその人物が現われたのは、それからまもなくのことだった。 「神和……来てくれたのか」 感嘆の声に御幣が顔を上げる。半袖のポロシャツにスラックス、といういかにも現場の指導員と言った出で立ちで表れたのは、二十代後半に達していると思しき、一人の男だった。見やって、神和が口元を歪めて笑う。 「どうも、山名先輩」 夕刻近い学校の校舎は、奇妙にひっそりと静まっていた。屋外から、もしくは離れた別の場所からの雑踏は微かに届くものの、その場所で立つ物音は比較的少ない。グランドを眺められる窓際に陣取って、御幣はそちらばかりを眺めていた。室内には神和と依頼人である美術教師、山名がいて、他に人影はない。 「中学校って、こんなに静かだったっけ?」 暢気に、グランドを眺める御幣がつぶやく。言葉を返したのは山名だった。 「業後になればこんなもんさ。幸いというか、今日はここも使っていないし」 「今日は?」 言葉に、いぶかしげに返したのは神和だった。苦笑して、山名が続ける。 「一応美術クラブってのがあるんだが、騒ぎがあってからは活動停止の状態だ。下手をすれば廃部らしい」 「けど先輩、ここの学校の美術クラブって、結構なOBも出てるんでしょ?近所の美術系高校への進学率も高いし」 「ああ、そういうこともあった。今は違うけどな」 行って山名は苦笑した。話を離れた場所で聞きながら、御幣は相変わらずグランドばかりを眺めていた。神和はその様子を一瞥して、それから依頼人に問いかける。 「とりあえず、もう一回詳しい話を聞かせてもらえますか?あいつには、まだ何にも話してないし」 「ああ……御幣くん、と言ったっけ」 声に、チラリとだけ御幣はそちらを見やった。ども、と短く言って、すぐにも彼に質問を投げる。 「騒ぎで相談、て事は、そういう話ですか?」 「校内暴力って言うんなら、わざわざ俺達が現場に出向く必要なんかないだろ?」 わかり切ったことを聞くな、とでも言いたげに神和が言い返した。依頼人、山名和志は苦笑しながら、 「そうだな。そういう問題ならそこの顔だけ男には話を持っていかないよ」 「……さすがに先輩だけあるなぁ。良く解ってますね、こいつのこと」 奇妙に感心しながら御幣が、改めてそちらに向き直る。笑いながら、まあなと言った山名の後、神和がわざとらしくため息を吐く。 「御幣、仕事の話をしに来てるんだ。ちょっと黙ってろ」 「とか言って、普段は自分の方がろくに働いてないじゃない」 威張るんじゃないよ、と言葉の後で御幣は付け加える。更に神和の顔がゆがんで、見ていた山名が微かに笑った。そして、 「最初は、くだらない騒ぎからだったんだ。社会科で宗教に関するアンケートをとって、一人の生徒の家の宗教がちょっと変わっていたらしくてな」 山名は、そう言って話を始めた。その生徒の家ではあまり聞き慣れない宗教のやり方で葬礼や結婚式などを執り行ない、毎日神棚の前に米と酒を備え、朝晩挨拶をするように祭っている、という具合に。 「そのアンケートのあった日の午後の部活動の時間、ここにボールが飛び込んできたんだ」 おそらく偶然だろうが、と山名は付け加えた。神和は眉を微かにしかめ、御幣は、やや落ち着かない様子で、時折辺りをちらちらと見回している。 「中学生くらいにはよくある話だ。祟りだの呪いだのって騒ぐのが出始めて、しばらくその頃もクラブ活動が中止になったんだ。騒ぎを大きくしたくない、って上の意向で」 しかしその中止期間も一週間ほどで終了し、部活動は再開した。が、しかし、その騒ぎの話に尾ひれがつき、この部屋で霊障が起こるという噂が流れ、挙げ句活動のない日には女子生徒がたむろして降霊ごっこをするようになった。 「……いつの世も、変わらないもんですね」 微妙に納得しながら神和がつぶやく。不意に口を開いたのは御幣だった。 「それで、今度は本当の霊障が起こったって訳ですか?」 「俺にも詳しいことは解らない。ただ、それを見ていた女子生徒が一人、ひきつけを起こして病院に運ばれた」 それまでそうした疾病の気配がなかった生徒だったために、更にその噂は広まった。挙げ句生徒の中からは、美術室には恐い霊がいるから授業を受けるのは嫌だと言い始めるものまで出始めた。 「直接受験には関係ない科目だから、生徒たちも遊び半分でやってるんだろうよ。俺にも記憶があるからそういうのには構わないことにしてるが、問題はその後だ」 その後、彼の言う上やPTAからの指導があり、その後一切そうした遊びをしないようにと生徒達は厳重注意を受けた。そして授業も部活動も円滑に再開した頃、いわゆる霊障じみた事件は起こった。誰もいない教室で蛍光灯と窓ガラスが一瞬にして砕け散った。最初は誰かのいたずらかとも思われたが、その証拠はなく、 「いたずらにしても、だ。平日の、教室は空いてはいたが授業中だぞ。最近増えてる学校での傷害事件とのからみもあるかも知れないからってまた大騒ぎだ。一応警察も呼ばれて調べていったらしいが、落雷も地震もないのに自然にこんなことになるのも珍しいし、とか言ってあやふやに処理されて、おかげでまた噂がぶり返す始末だ。学校側は生徒に危険が及ぶ恐れがあるから、って理由でしばらくクラブ活動は中止、授業は各教室で行なえる範囲で、に変更、とまぁ……こんな……」 言葉の終わり切らないうちに、不意に御幣は立ち上がって窓際へと歩き始める。見もせず、神和は言った。 「御幣、大人しくしてろ」 「僕は大人しくしてるよ。でも、そうしてくれないヤツもいるよ?」 「……え?」 山名の顔面が蒼白になる。まさか、といいたげに半開きになったその口元を見て、神和はため息をついた。 「山名さん、他にも何かあったでしょう?ここで」 「あ……いや、俺は良く知らんが……」 「ちょっとの間、この部屋貸してもらえますか?それとも……見ます?」 言いながら神和はかけていたサングラスを外し、答えも聞かないまま彼に背を向ける。 「こ……神和?」 「普通そういう話は九分九厘ガセだったり、電磁波の影響だったりするもんなんスけどね」 「ま……まさか」 じりじりと山名は後退りする。笑いもせず、神和は言った。 「そのまさかですよ。御幣、まだ動くな」 「穏便にすませるつもりなら僕を連れて来なくても良かったんじゃない?」 「バカ言え、何のためにお前と俺が一緒に組まされてると思ってんだ」 けっ、と言葉の後に言い放ち、神和はまたため息をつく。山名は生きた心地も失いかけて、そういった現場であるのにまったく平然としている二人の様子に、すでに声も出ない。 「たぶんその引きつけを起こした女子生徒の辺りからは、本当にそういうのの仕業ですよ。どうせやってたことは低級霊でも呼び出して、いわゆる恋占いってヤツでしょうが」 「女の子ってそういうの、好きだよね。じゃ、きっと体質の自覚がなくてやったんだ?」 「た……体質?何だ?何だ、そりゃあ……」 山名の声にはすでに涙が交じっている。振り返り、神和はそれを見てニヤリと笑った。 「いわゆる霊媒ってヤツですよ。詳しい説明は後にしますが……キツネ、だな」 「稲荷神?それとも神使神?」 聞き返したのは御幣だった。何を思ったか神和は、唐突にそこで柏手を打つ。甲高く二拍、室内にその音が響き渡る。あ、と、小さく御幣が言ったのはその時だった。彼らの目の前に小さく白い影が、ゆっくりと結ばれ始める。見て、目を瞬かせたのは御幣だった。そのまま彼は神和を見やり、 「神使神、だね」 言ってから軽い足取りで、御幣はその小さな白い影に歩み寄った。そしてその前に立つと、まるで子供と視線の高さを合わせるかのようにその場にしゃがみこむ。 「こんにちわー、僕、いくつ?」 「オイ……人間のガキじゃねぇんだぞ?」 「でも僕にはそういうふうにしか見えないよ?素敵な和服姿だけど」 山名には、そこでいったい何が起こっているのかさっぱり解らない。にこにこ笑って何かに話しかける好青年が一人と、それを見てあきれている黒ずくめの男が一人。それは怪しい光景以外の何ものでもなかった。そこに思いがいたったのか、神和はちらりと山名を見やる。さきほどとは違う驚愕の表情で、彼は神和の困ったような顔を見返した。 「こ……神和?」 「すぐすみます……先輩、大丈夫スか?」 「あ……ああ……」 何が何やら全くわかっていない顔がそこにある。説明するのも面倒だが、と思いながらも、神和は一応それを始めた。 「高校の時に変なクラスがあったでしょう、一つだけ」 唐突な言葉に、山名は思わず首を傾げる。続けて言ったのは御幣だった。 「僕もそこの出身なんですよ?副理事の御幣鎮って知ってます?うちの叔父なんですけど」 要するに、そろって三人とも、同じ神道系私立高校の出身であった。更に、神和の言葉は続く。 「あそこの一クラスが、そういうクラスだったんです」 「まさか……霊能者養成クラス、とか?」 言葉の後、ごくりと山名は息を飲む。けらけらと笑い出したのは御幣だった。 「そいつはいいや。どこかの密教系大学みたいで。さすがに養成はしてなかったよねぇ?神社関係者の子は多かったけど」 「御幣、お前は黙ってろ」 いちいち茶々を入れる御幣を制するように神和は言った。そして一つ咳払いして、改めて口を開いた。 「今ここに……ミサキガミと呼ばれる神様がいます。事の発端は、こいつです」 神使神、もとはただ「神使」と書かれていたが、時経た後に神格化され「ミサキガミ」と呼ばれるようになった。役目はそのものずばり、神の使いである。 「ざっと説明するとですね、こいつ、最初に出てきた神棚の神様の関係者なんです。今時感心ですよ、ちゃんと毎日施行して。で、そこの神様が、その子がバカにされたんで心配してたら、じゃあ自分が近所に住んでたことがあるから、周辺見がてら様子でも見てきてやろう、って言って、来ちゃった、と」 「それで……じゃあその生徒を中傷から守るために、ガラスを割ったりしてたって言うのか?」 「それは、たぶん引きつけを起こした女の子に降りたやつです。先客の気配にひっぱられて、いろいろ集まって来てたんでしょう」 気分が悪いのでこれで帰ります、と言って職場を辞した時の山名は、事実足腰立たない状況であった。神和と御幣が二人がかりで連れ出したのは、近くのコーヒーショップで、オカルト云々とは縁もゆかりもなさそうな、そんなスペースである。 「い……いろいろ、だぁ?」 まだ一口も飲まれていないホットコーヒーの水面が、山名の声で微かに揺れた。その斜向かいではアイスカフェ・オレをストローで飲んでいる御幣の落ち着いた姿がある。尋常ならぬ出来事に驚嘆しているのは山名ただ一人だ。神和は続けて説明をする。 「降霊ごっこみたいな遊びをする時、やりっぱなしで後の処理をしない事がある。たぶん途中で見つかって怒られたか何かして、中途半端になってたんでしょう。これも本当に呼んだりすることは希なんですが」 いわゆるその手の遊びは、実際民間でそうした行為が行なわれていた名残りだ、という説がある。そのために遊びでありながらも、きちんと終わりを準えなければならないことになっている。それは万が一のための防御策であり、かつて本当にそのことがあった証拠でもある。 「引きつけを起こしたって女の子は、その後どうです?」 話題が現実味を増したものへと移行する。我に返って山名は答えた。 「ああ……特に健康上の問題もないそうだ。ただ本人びっくりしたらしくてな。病気じゃないかと心配してるようだが……」 「もし何かあったらその時はまた相談に乗ります。カウンセラーの紹介もやってますから」 「か……カウンセラー?」 「そういう問題で終わるケースの方が、実は多いんですよ。この手のネタってのは」 山名に、返す言葉はなかった。神和は微かに笑いながら、今日はお友達料金でいいですよ、とその後付け加えた。 「ところで神和くん」 「何だよ、急に改まって」 「何だよ、じゃないよ」 結局最後まで訳がまったく解っていなかった山名を送り届けた後、二人の足は元来た道をたどるように、その現場近くに向かっていた。先を行くのは神和、後に御幣が続く。 「帰るんじゃないの?もう定時過ぎてるよ?」 「何だ御幣、残業手当でも出せってか?」 「いやそーじゃなくて。珍しく働くと思って」 口調は、どちらかというと現状を楽しんでいるような感じだ。振り返りもせず神和は背後の男がほくそえんでいるのを想像する。御幣はその通りににやにや笑って、 「ついでに、意外に先輩とか思ってあげるんだなぁ、とか思って。そういういたわりをもっと係長にも注いであげなよ?」 「それはこっちの科白だ。お前こそ目上の人間にもっと優しくしろ」 「目上、ねぇ……僕、自分より強かったり大きかったりするものに、優しくなれないんだ」 おどけたようにやや大げさに御幣が言う。チラリと振り返って、神和はその眉をしかめた。にっこり、御幣は笑い、 「ほら、何しろ僕って甘やかされて育ってるでしょ?末っ子だし、上の二人とは歳もずいぶん離れてるし」 「ついでに二十歳以上も年上の兄貴はうちの業務部長と来てるしな」 わはははは、と、わざとらしく神和が笑いながら言葉を返す。御幣はそのまま、 「そうそう、解ってるじゃん」 「……バカヤロー、お前なんか嫌いだ」 半ばいやみで言ったつもりがまったく意に介されず、神和は舌打ちしてすぐにも踵を返した。二、三歩その背中を見送り、苦笑混じりに御幣は吐息を漏らす。 「でも戻って何するのさ?あの場所のうろうろしてたのなら僕がいただけでずいぶんいなくなっちゃってたじゃない?」 「そいつらはな。けどあのミサキガミにはまだ言い分があるみたいだったから、聞いてやるんだよ。そういうのが本来の仕事だろ?」 言い返され、御幣は目を丸くさせる。そして、何を思ったかくすくすと笑い始めた。神和は再び足を止め、振り返ってそこで笑う男をにらみつける。 「……何だ、その笑いは」 「いやぁ、本当に珍しく働いてくれるなぁと思って。いつもなら……っていうか、朝の様子じゃ今日は一日グロッキーだと思ってたのにさ?良く歩くし。行きがけに草むらうろうろしてたのって、実はただ迷ってたんじゃないんだろ?」 にやにや、御幣は笑っている。ちっ、と神和は舌打ちし、いまいましげに視線を投げた。 「わかってるなら聞くな、このスットコ野郎」 「君はどうしてそうなんだろうねぇ。僕だって、一言言ってくれれば文句もなく働くってものなのに」 「本庁一の鈍感男に言われたかねぇよ」 「すぐそういう口の利き方するし……ま、君が照れ屋サンなのは昔からだけど」 相変わらず、御幣は笑っている。ふてくされて無言のまま、再び神和は歩き出した。八百万神祇会、表向きには神社など神道関係のサポート団体であり、体質的には合資会社に酷似していたが、実体は神道呪術に基づいた神秘団体に他ならない。とは言え、彼らはそうしたオカルティックな面で世間に名が知れ渡ることを極力避けているため、業界以外では全くの無名ではあったが。 「それにしても、今も昔も女の子っていうのは降霊ごっこが好きだけど……うちの高校じゃそういうの、なかったよね」 「そりゃお前、同じ校舎の中に本物がいるってわかったら、誰もやる気にならねぇだろ」 神和、御幣、そして山名の通った私立高校はその八百万神祇会が経営する学校法人であり、その目的は本庁と呼ばれる宗教組織の運営費用を集めることと同時に、将来的にそうした職業につくであろう人材またはそうした体質を持つ人材の保護でもあった。故に遊びでの降霊術は暗黙のうちに禁じられ、よくある七不思議の類の噂すら存在しなかった。 「まぁそうだね、本物でうようよしてれば。でも比率から言ったら山名さんみたいな普通の人のほうが多かったけど」 「世の中、そのくらい本当の障りなんてないんだ。いいじゃねぇか、平和でよ?」 けけけ、と、わざと下卑た声で神和が笑う。苦笑を禁じえない御幣は一人肩をすくめ、 「何しろこの国には八百万の神様がいて、大半がそれをちゃんと知らないからなぁ」 迫る夕刻を辺りに感じながら、独言のように言った。 その場所に二人が到着したのは辺りに薄闇が垂れた頃だった。陽光はわずかに西から差してはいるが、既に足下は暗く、判別しにくい。辺りには街灯もなく、遠くから聞こえる自動車の騒音と思しき音が、途切れることなく低く響いていた。膝下が隠れそうなほどの草むらの、中。 「ここって中学の管轄?それとも、公園?」 「さあ。そういう話は本庁でしてもらえばいいだろう。それがあいつらの仕事だ」 そこは都市の一部でありながら、何故か見捨てられたようにその機能の存在しない場所だった。近くに遺跡があるため、保存地域として開発の手を逃れた、もとい、整理されていない状態らしい。薄闇の周囲を見渡しながら御幣が、何気なく問いかける。 「城跡だったっけ?この辺。それとも古墳?」 「古墳だったらもっとちゃんとしないとまずいだろ。こんな草ボーボーじゃあ」 「けど、お城だったら狐神がはぐれてることはなさげだよ?ちゃんと移築したりお祭りしたりするだろうから」 日本の城郭の中には必ずといっていいほど稲荷が祭られている。然るべき発掘調査とうをし、その城を復元するなどの事業を行なった後、それらはたいてい近隣の神社などに移築され、それ以降も祭られる。江戸期においては一般家庭、主に商家で同じように稲荷を祭っていたことがあり、古い屋敷にはその痕跡が残されていることも多々ある。しかしそれが忘れられて放置されていることも少なくない。そうした場合にも霊障は起こりえるが、それは決まって祭っていた家の住人やその子孫またはその場所に住む者が対照となる。が。 「……本人に聞くのが一番手っ取り早そうだ」 周囲に人の住んでいる気配はなく、あの狐神もそういう理由で辺りをうろついていたもの、ではない。神和はつぶやくとその場で柏手を二つ打った。甲高い音が辺りに響き渡る。ごぉっ、と、風が鳴き、二人の髪や服をばたつかせる。 「あはりや あそばすとまうさぬ わがみまえに つちにすまうかみ おりましませ」 手を合わせて唱える神和を、御幣は黙って見ていた。やがて風が止み、その前に白い影が姿を現す。後ろ足で立つ犬ほどの大きさのそれは、犬のように大きな耳を持ち、犬よりもふっさりとした尾を生やした、犬ではないものだ。白い、いわゆる稚児の装束を身にまとい、頭には中折れの烏帽子をかぶっている。 「……この辺りの……土地のモノか?」 神和はそれに問いかける。その影は、人のいう声では答えない。頷くようにして、そのふさふさとした尾を二、三度振ってみせる。くるくると良く回る黒目がちの大きな瞳が、先程から辺りをしきりに見回していた。大方、乗り移ることのできる体を探しているのだろう。気づいた神和は苦笑する。 「悪いな、そういうのは今、いないんだ。あいつに乗ってくれてもかまわないが、お前がが消滅しかねない」 「何かそれ、ひどい言われ方じゃない?」 あいつ、と言われた男がすかさず口を出す。見もせず、神和は言葉を続けた。 「この辺りに住んでいたモノか?住処はどうした?」 それはその問いかけに、キョロキョロと辺りを見回すのをやめた。そして困ったように、彼の背よりももっと後方へと、その視線を投げた。何かがそちらにあるらしいが、それは問いかけに答えると言うより、何か別のことを訴えるような、そんな目だった。 「あっちに、何があるの?」 小動物にでも問うように御幣がそれに問いかける。それはその視線を神和に向けて、それから後ろの二本足で、器用にちょこちょこと歩き始めた。そして、御幣の脇を通り抜けるとき、わずかに怪訝そうな顔をする。 「嫌われたな」 「やだなあ……何にもしないってば。抱っこしてやろうかとは思ったけど」 「『神殺し』のお前にとっつかまったら、あのくらいの弧神なら一瞬で消滅するだろうよ」 神和が笑いながら、彼の後を追う。御幣はふてくされ、更にその後に続いた。 「うっわー……捨ててあるよ」 その場所にたどり着く頃、辺りは既に闇に包まれていた。街灯もろくにない真暗な草むらの中、ぼんやりと点っているのは、いわゆる鬼火だった。人間風情は夜目が利かないだろう、というあちらがわの配慮らしい。獣が稚児装束を着たような影はすでになかったが、それがそこに何かがいる証だった。生え放題の草むらの中に、それはごろりと横倒しになっていた。表面は苔むして、風雨でずいぶんと形を変えている。石で作られた小さな祠だ。 「留守中に処分された……そんなところか」 独言のように神和がつぶやく。それで最初からどこか態度がおかしかったのか。思い至り、神和は息をついた。この辺りに住んではいなかったが、それがここへ捨てられたとは。 「ひどいことするなぁ……相手はこんなに無力なのに。犬猫捨てるのと変わりがないよ?」 「お前は少し黙ってろ」 憤るふざけた科白に一括し、神和はその社を見つめた。普通、この手のことをされたならそれ相応の仕返しをするものだが、それは全くそうしたことをしていない様子だった。ただ哀しそうに、ここにあることを自分たちに訴えているだけだ。ぼんやり浮かぶ青い炎をちらと見て、神和は苦笑を漏らした。それからは、恨みや憎しみと言ったものが全く感じられない。 「すぐに本庁から人を回してもらうとするか。このまま放置するわけにもいかないからな。後はあっちに任せよう」 「連れて帰ってうちで飼うってのは?」 「御幣、お前なぁ……」 「いいじゃん、便利だよ?陰陽師の使う式神とか、密教僧の護法みたいにさ?」 どこまで言ってもこの男は、思いつつ神和は額に手を当てる。笑いもせず御幣、 「ってまぁ、それは冗談だけど。それにしたってひどいことするよね。留守の間に処分って……同業者が関与してない?」 そう言って鬼火を見やる。それは微かにゆらいで、ほんのりと落ちる二人の影を微かにゆらした。神和は何も言わない。ただ、ゆらぐその炎を見つめている。 「調べたほうがいいんじゃないの?ちゃんと依ってもらって話聞くとかしてさ?」 「かもしれんな」 御幣は眉を寄せた。神和は答えて、その場でため息をついた。 八百万神祇会本部、通称、本庁。会社組織に類似したその組織内の一つに、地鎮係と呼ばれる部署がある。呼んで字のごとく、いわゆる地鎮を担当する部署であり、所属する人間のほとんどが霊能力者、ここでは特に巫覡と称されている。総合宗教相談事務所はこの管理下にあり、言ってみれば出先機関、別名『流刑地』であった。 「屋敷神が捨てられてた?」 「簡単に言うとそんなんかな。惨いんだよ、これが。ちょっと遊びに行ってて、帰ってきたらうちがない、って感じ」 事務所のある市街地から自動車で一時間ほどの山間の村にその本部はあった。敷地は広く、本部棟と呼ばれる鉄筋コンクリートの五階建てが一棟と斎場と呼ばれる別棟、更には社殿があり、周囲は人工林がぐるりと取り囲んでいる。林を抜けてすぐ近くには所有の耕作地が数ヘクタール広がり、同じ敷地内には同団体が経営する私立高校、更には特殊更生施設までもがある。その本部棟と呼ばれる建物の一階部分は、さながら高級老舗旅館のロビーにも似ていた。壁に大きくとられた窓からは見事な日本庭園が望める。その一角で御幣は彼の上司と相対していた。本庁業務部巫覡課地鎮係係長、誉田八郎。しかし彼も昔なじみのため、係長と呼ばれることはまずない。 「それで今神和くんが対処係の方に話に行ってるとこ。僕達でどうにかしてもいいかとも思ったけど、うちの名前出したほうが楽らしくて」 この辺りじゃ無名なようで有名だからね、と御幣は言葉を付け加えた。普段と全く変わらずににこやかな御幣の前で、誉田はと言うと、ややもするとおののいたような表情でそれを見て、多大に溜め息をついた。 「……何、今の」 「いや……普段通り変わっていないらしくて、安心したんだ。気にするな」 三十二にしては気苦労の多い彼は苦笑しながら、その視線を窓の外へと投げる。横顔を眺めながら、御幣は言った。 「相変わらずの苦労性だね、八郎サン。僕も辰耶ももう大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいよ?」 「ああ、俺もそう思いたいよ。思えるんなら」 「何をそう考えてるのか僕には解りかねるけど、上司と部下との板挟みじゃ、下っ端中間管理職も楽じゃないよね。僕らの場合はまた、変な特別だから」 言葉の後、御幣は苦笑する。振り返って、誉田も同じに苦い笑みをその口元に浮かべた。 「自覚があるならもう少し、上の言うことを聞いてくれると助かるんだがな、俺としては」 「何について?仕事はちゃんとしてるよ?ぐうたらしてる誰かさんを毎日のように叱咤してるし、気分次第でそこら中のお化けやら何やら切り捨ててないし、我慢して手出ししたいものにても出してないし」 「だったらそういう科白も吐くな」 ぴしゃりと言われて、御幣は目を丸くさせた。笑うのをやめた誉田の表情が、いささか険しいものへと変わる。 「何度も言わせないでくれ。お前が暴走したら、俺が片付けなきゃならない。解ってるだろう?」 「解ってるよ?僕は本庁随一の『神殺し』で、巫覡としての破壊能力では国内には並ぶ人間がいなくていざとなったら八郎サンに神様の一人も降ろして殺さなきゃならないんだろ?」 御幣の表情、やはりは全く変わらない。しらっとした顔で言える科白か、と思いながら、誉田は言葉を返した。 「その通りだ」 巫覡、ここでは霊能力者という呼称ではなく、彼らは全てこう呼ばれる。神とよく交わり、その意識を介し、存在を察知し、またその能力によって神をも殺すもの。御幣鼎はその巫覡の中でも『神殺し』の異名を持つ、すさまじい能力者であった。それは神話の時代、国津神を平らげるために天から降りてきた、一柱の神の力にも匹敵すると言われ、人は彼を『経津主の御幣』とも呼ぶ。経津主、別名佐士経津、甕経津とも称し、日本神話において最強の、神殺しの剣の名である。 「僕もバカじゃないよ、そこまでは。だからいまだに大人しく本庁にいるし、特に問題も起こしてないしね」 「……鼎、いい加減にしろ」 誉田が言葉とともに目を逸らす。困惑した表情を伺うようにしてから、御幣はくすくすと笑った。 「本当に根がまじめなんだから。そんなに真剣になってると胃に穴でも開いちゃうよ?」 「その一因のお前が言うな」 額を押さえてうめくように誉田が返す。ありゃりゃ、と小さく言って御幣は肩をすくめ、これ以上いじめるのもかわいそうか、と思いながら、座っていたソファから立ち上がる。 「どこへ行く?鼎」 「ん?神和くんがちゃんと対処係に行ってるかどうか見てくる。別のところで油売ってそうだから……松浦は?」 「ああ……さっき社殿のほうに行くと言ってたが……」 「じゃあ、まずそっちから見てこようかな。ついでに五十鈴の所にも顔出して来よう」 その場で御幣は大きく伸びをする。誉田は溜め息をつき、その眉をまたしかめた。 「鼎、お前……」 「何?五十鈴には手出しするな、とか?」 「いや、そうじゃないが……」 言いよどみ、誉田が彼から目を逸らす。御幣はにっこり笑い、 「じゃあ僕らの恋路の邪魔はしないでよ。馬に蹴られてだったらまだいいけど、僕に斬られて死ぬのは嫌でしょ?誉田係長」 誉田に、返す言葉はない。御幣は彼に背を向け、奇妙に軽い足取りでその場所を離れた。 森は、いつものようにひっそりと静まり返っている。元々一帯は耕作地でその場所は明らかに人の手によって作られたものだったが、聖地と称するのにふさわしい雰囲気を何時の間にか得ていた。茂る木々の間から陽光が射し、流れる風に梢が揺れて、その度にちらちらと地面の上では光が踊る。森は、古くから聖地であった。神々が宿るその場所は時として禁足地とされ、神と共に人の手から守られてきた。その場所では一切の殺生が禁じられ、害獣であっても狩られることは許されない。彼らはその場所に住まうことで神と同等に扱われ、そうされるべきものなのだ。神域に暮らせるのは神と、その許しを得たものだけなのだから。本庁の社殿とその敷地内でも、比較的新しいとは言えその決まりごとは存在していた。築五十年というと通常の家屋ならずいぶんと年寄りではあるが、神社としては若すぎるほどに若い。神が宿ると言われても、信じられないほどに。 歩みを進める度に足下で玉砂利が歌う。杜の中は常に静かだ。祭礼の際にも、その静けさは破られない。音曲であふれ、人にその砂利を踏みしだかれても、その場所は何故かその不思議な静けさを保ち続けていた。耳を澄ませば、聞こえるはずのない声すら、聞こえてきそうな気配さえある。白の偏に白の袴姿のその人物は社殿に続く道をまっすぐに歩いていた。普段通りの静けさの中、早すぎず遅すぎないペースで、玉砂利は歌う。ここにいるとそれだけで心が洗われる。そんな心地がその表情にも伺えた。歩く度、長く伸ばした黒髪が、さらさらと鳴る。 「よぉ、千五穂。久しぶりだな」 玉砂利の歌が途切れる。足を止めて、彼女は振り返る。杜の木々の間にはその白い装束とは対照的に、頭の上から足の先まで黒ずくめの格好の男、神和辰耶がいた。見やって、彼女は微かに笑う。 「相変わらず暑苦しい格好だな。神和」 松浦千五穂、本庁地鎮係に所属する、やはり巫覡の一人だ。女顔の神和とは対称的な意味で割合整った顔つきの彼女は、何も塗られていない薄い唇から、言葉を紡ぎ出す。 「また仕事をさぼってるのか?よりによってこんなところで」 「オイオイ、お前までそういうクチかよ?勘弁してくれ」 うんざりするとでも言いたげな口調で言葉を吐き捨て、神和はためらいも何もなく彼女に歩み寄る。そして、 「俺だって千五穂にこれ以上嫌われたかないからな。まじめにやってるよ」 「心配するな、これ以上嫌いにはなってもこれ以上好きにはならない。誉田係長に用でもあるんだろう?さっさと本部棟へ行け」 「連れないお言葉。美人が台無しだぞ」 「自分より美人に言われても、説得力はない」 「……然様で」 ざくざくと、再び玉砂利を踏みしだいて彼女は歩き出す。僅かに見送り、神和がそれに続いた。 「そんな格好で本殿に行くって……また仕事で遠出か?よく働くな?」 「これしか能がないから。稼げるうちに稼いで、貯えておかないと老後に困る」 「現実的なことで。結婚でもして玉の輿に乗ったらどうだ?」 「生憎、そう言う性分じゃない。ついでに、一応跡取り娘だ。婿は取れても嫁には行けない」 「御固いことで」 冷たい口調に軽く神和は返す。二つ年上の彼女とも、付き合いだけは長い。が、その長い付き合いの中で自分に対して笑ってもらった記憶は皆無だ。綺麗な顔をしているのに、この美人はいつもにこりともしない。性格だ、とか何とか言っているが、実際のところどうなのだろう。思いながら神和が、今まで幾度もなく口にした問いかけを、ためらいも何もなく彼女に投げる。 「千五穂、お前って俺のこと、嫌いなわけ?」 「嫌いとは思ってない」 「けど、好きじゃないよな?」 俺は出会ったその時に心奪われて、そのまま続行中なんだけどな、と、胸中でその男はつぶやく。千五穂はちらりとも彼を見ず、 「どちらかと言うと妬ましいと、いつか言ったはずだが?」 「……意味がよくわからんぞ」 やっぱり好かれてはないか、と、いつもの結果にがっくりと神和は肩を落とす。 本庁に、巫覡として登録されたのは今から八年前、十六の事だった。千五穂との出会いはそれとほぼ同時だから、彼は八年間も彼女と同じ問答を繰り返していることになる。初めて会った時からいい女だとは思っていたが、年経るごとにますますその良さに磨きがかかる。どうにかして自分のものにしたいが、何ともままならない。二つ年上の彼女は僅かに彼を見やり、そして言った。 「一緒に来るか?」 「え?どこに?誘ってくれるのか?」 ぱっと神和の表情が明るくなる。しかし彼女の表情は微塵も変わらず、 「調査で出る。審神者が一人ほしいと思っていたところだから」 「って……何だ仕事かよ」 言葉に、一瞬にして彼の明るい表情は崩れ去った。向き直って、彼女は改めて問い返す。「他に何がある?」 「……何もないです」 肩を落としたままの神和の言葉の直後、再び彼女は歩き始める。神和は気を取り直し、再び彼女の背中を追い始めた。 「けどその審神者が要る調査って、何だ?」 「警察関係の仕事だ。依頼内容は関係者以外極秘と言うことになっている。私も、まだ聞いていない」 「へぇ……またどうせオカルト教団の調査か何かだろ。やばくなったらすぐ駆けつけるから、その時は遠慮なく言えよ?」 「心遣い、痛み入る」 「……へいへい」 じゃあ仕事の前の禊か。神和は思いながら改めてその白い装束を見やった。禊とは言葉の通りに身を清めることであり、八百万神祇会の人間だけでなく、祭礼に関与する全ての宗教関係者が、その前に行なう儀式である。それまでに体に染みついた全ての汚れを落とし、清浄になり、この場合はよりよくその能力を行使できるようにする、言わば前準備のようなものだ。 「相変わらずまじめと言うか……まじめだな」 「何が?」 神和の言葉に彼女は首を傾げる。変なヤツだな、とつぶやいて、その足は止まることなく杜の中を進んだ。ざくざくと玉砂利が、二人分の足音を奏でている。辺りは静まり返り、その静けさが、神和には少しつらかった。毎度の事だが、どうして話題が続かないんだろう。職場の配置がら、滅多に会えないと言うのに。玉砂利の鳴る音だけ聞きながら、神和はそんなことを思った。 「……なぁ、千五穂」 「何」 「いや……何って……」 彼女の受け答えはいつもながらあっけない。横顔を伺い見るようにして、神和はため息をついた。 「言いたいことがあるなら話したらいい」 「……いいよ、俺が浅はかだったよ」 「何だ……わからないヤツだな」 言葉の後、微かに彼女が笑う。どうしてそういうところで笑うかな。毎度のことながら、毎度のように哀しくなる神和だった。 社殿はいわゆる神社と言うよりも、平安貴族の住居であった寝殿に近しい作りをしている。そこは神を祭る場所であり、神事を執り行なう場所であり、同時に、神に仕える者の住居でもあった。巫覡課本殿祭礼係、というのが正式名称だが、彼らは通常、本殿の巫覡と呼ばれている。土塀に囲まれたその敷地の北の最も奥に神殿が作られ、その正面に拝殿があり、その他舞楽殿などがその手前に配置され、全てが高床の廊下でつながっている。 「あー……いつ来てもここは静かでいいねぇ……鳥まで鳴いてる」 高床の廊下に、御幣はその時寝そべって天を仰いでいた。傍らには白い偏に緋色の袴をはき、羅を羽織った少女と思しき巫女が一人、ちょこんと座っている。 「じゃあ鼎兄様、ずっとここにいらしたら?」 「うーん、そうだね……それもいいかもねぇ」 普段以上に弛緩し切った顔と声とで御幣は答え、その目を軽く閉じる。傍らの少女はくすくす笑い、そんな彼の顔を覗き込むようにしていた。 「でも昼寝するにはちょーっと涼しすぎるかなぁ……」 「じゃあ何か着るものでも持ってきましょうか?」 「うーん……でも本当にここで寝てたら、後で誉田係長だけじゃなくて……部長にもしかられちゃうなぁ……」 言いながら、あふあふと御幣はあくびする。くすくすと笑う声が辺りに響き、彼はそっと目を開けた。 「やっぱり起きてよ。せっかく五十鈴に会いに来て、昼寝してたら勿体無いもんね」 「まぁ、兄様ったら」 答えて、少女はくすくすと笑った。瞬きする度に、目許に入れられた藍と紅の化粧が、蝶のように閃く。彼女は本庁、いや国内最高の巫女姫と呼ばれていた。御巫五十鈴、今年十四歳になったばかりの彼女は、その年には似合わないほど屈託なく良く笑う。それを見て、御幣はその膝に手を伸ばした。 「やけにご機嫌だね、お姫さま。何かいいことでもあったの?」 「あら、いいこと?兄様が来てくれたら、十分五十鈴にはいいことよ?」 「おやおや、うまいことを言うようになったねぇ。ついこの間までおしめだったくせに」 冗談めかして御幣が言うと、まぁひどい、と言って彼女はその頬を膨らませた。実際、御幣は彼女を幼い頃から見ていてよく知っていた。さすがにおむつを変えたことはなかったが、その頃からのなじみと言っても間違いはない。何しろ彼女は既に十年もの長きに渡り、ここにいる。半ば軟禁されているかのように。 巫女の役割は、主に祭礼である。神とよく交わり、占いをし、時に神を降ろしその言葉を伝え、未来を見、夢を渡る。五十鈴は予知能力に長け、未来視に関しては国内には右に出るものがいないとまで言われる能力の持ち主である。同時に良く神に愛され、故に人よりも厳しく外界との接触を絶たれている。 「でもここもいいところだけど……他にもたくさん、連れていきたいところがあるのに」 天を見上げながら、ぽつりと御幣はつぶやく。聞き取れなかったのか、なぁに、と五十鈴が問いかけて、彼は、何でもないよ、と笑って返す。極秘裏に、彼女はここで暮らしている。外へ出ることはない。その年齢であるなら受けるべき義務教育さえ、彼女は受けていない。それは彼女の巫女としての能力が余りに強大であるのと同時に、彼女の存在がそこに住まう神々にとって、大きな影響を与えるためである。表向き、教団は神秘団体である事を隠してはいるが、彼等はまごう事なき神秘集団であり、その頂に『神』を奉る。彼女は巫女、時として『神妻』とも呼ばれる。故に多く人と交わる事を許されず、生き神同然にこの宮で暮らしている。要するに閉じ込められているのだが。 「神様がライバルか……ハードル高いなぁ」 「なぁに、何のお話?」 小さな呟きに、無邪気に五十鈴が問いかける。笑いながら御幣は体を起こし、 「何でもないよ」 「そう?そうだ兄様、この間ね……」 彼の答えを聞くなり、五十鈴は話し始める。見守るように眺めながら、御幣はその声に耳を傾けていた。滅多に外出もしない彼女にとって、親しい人の訪問も、楽しみの一つなのだろう。 「それでね、ぼたんちゃんたら袴の裾を踏んづけて、思いっきり転んじゃったの。でも神事の途中だから笑っちゃいけなくて……」 「何やってんだこのロリコン男」 無邪気に話す少女の声にかぶって、無粋なその低い声が辺りに響く。我に返った御幣は露骨に眉をしかめ、そちらに振り返った。同時に、五十鈴がその声の主を呼ぶ。 「神和の兄様、兄様も来てたの?」 「そいつはオマケだ。な?御幣」 どこへ行っても黒ずくめの男は、いつもと同じく顔に似合わない下品なにやけた笑みを浮かべて、その庭先に立っていた。むすっとした顔のまま、御幣はそんな彼に問いかける。 「対処係に行ってたんじゃなかったの?それとも今まで松浦にちょっかい出してた?」 「そりゃこっちの科白だ。本庁に出向くのにかこつけてくっついてきたくせに」 「僕は君の監視役だからね。できるだけ着いて歩かなきゃならないんだからいいんだよ」 「言ってろ」 言い返されると神和は、吐き捨てるようにそう返した。じろりと、相変わらず御幣は彼をにらみつけている。傍ら、五十鈴は全くかまわず、神和に向かって伸ばした手を振る。 「兄様、お久しぶり。お元気?」 「おう、姫サマも相変わらずか?さっきぼたんのヤツが探してたぞ?今度は何をおイタしたんだ?」 答えるようにして、笑いながら神和が彼女に歩み寄る。その言葉に五十鈴はふくれて、 「やぁね、兄様まで。五十鈴はおイタなんかしないわよ。二人そろってどうしてそういう意地悪言うの?知らない!」 そばにやってきた神和の胸を拳で軽くたたいてみせる。いたずらっぽく笑いながら、 「おぅ、そうか。じゃあ姫サマ、早く行ってやれ。松浦も待ってる」 「やん、いけない!千五穂姉様のお清めがあるんだったわ!」 きゃー、と小さく叫んで、あわてて五十鈴はその場から駆け出していく。手を振って見送り、それから神和は改めてそこで膨れている一つ年下の同僚、御幣を見て言った。 「……何か顔が恐いぞ、お前」 「そう?元々こうだよ、僕は」 あからさまに不機嫌の表情で御幣はぶっきらぼうに言葉を返す。神和はそれ以上何も言わず、あきらめたようにため息をつく。 「……あーあ、何だかバカみたい。今時流行らないよね?十代の女の子を宗教的な理由で軟禁するのも、自由に恋できないのも」 神和は何も言わなかった。御幣が、自嘲の笑みを口元に浮かべる。ややもして、 「御幣……俺は止めないけどな」 こほん、と神和は咳払いをする。そして、 「五十鈴はまだ十四だ。勢い余って犯罪者にだけはなるなよ?」 「何それ、どういう意味?」 「そのままだ。それ以上でも以下でもない」 「人を変質者にしないでくれる?君の方がよっぽど危ないよ。まぁ……相手が相手だから、隙すらないみたいだけど」 「ほっとけ」 ちっ、といまいましげに神和が舌打ちする。見て、御幣は勝ったとばかりに笑みを漏らす。 「そう言えば神和、対処係には行った?」 そして続けて彼はそんな風に、傍らの男に問いかけた。神和は苦い顔のまま、 「おう……ついでにやっかいごとも頼まれた」 「やっかい?」 首を傾げて、反復するように御幣が言った。 審神者、という名称がある。呼んで字のごとく、それは神を見分ける者、という意味だ。古代、降霊の際にその存在は重視されてきた。彼らはその術を行なう際に立ち会い、そこに現れたものを見極める。この国において、神とは霊全般を意味し、かつては鬼も神も魂も、同じ言葉で著わされてきた。正邪にかかわらずそれらは全て『神』であり、時としてその邪が正に転じることも、その逆も希ではなかった。死した霊魂が始めに畏れられ、やがて祭られるのはそうしたことの一例でもある。神和辰耶もその審神者であった。現れた神の性質を見極める。人は時にそのうちの邪悪なるものを悪鬼とも妖怪とも呼ぶが、神道の観念において彼らは全て神だ。病をもたらすものを疫神と呼び、人を喰い殺すものを、鬼神と称するように。 「同業者の中にのべつまくなし消滅させるのがいる?何それ」 八百万神祇会には、比率的に言えば数多くの巫覡が在籍している。とは言え絶対人数が少ない小規模な団体であり主だった活動が神社のサポート的なものであるため、霊障の処理件数は実のところ然程ではない。神和、御幣の事務所でも受け付けている、そうした相談の多くの実務処理は外注と呼ばれる霊能力者に委託する、というのが昔からの彼らのスタイルでもあった。更に付け加えると、彼らはその方面で有名になること極力避けている。宗教団体であり心霊市場に参入はしているものの、それはあくまで活動の一部というのがその主旨だからだ。そしてそれなのに何故か、同業者へのクレームがここが元締めだろうと言わんばかりに彼らのところに飛び込むことがある。その多くは当然的外れではあるのだが、宗教団体であるからはそれは致し方ないことでもあった。 「何でもどっかのビルの屋上に移築した社のご利益が消えた、とかいうのが最初らしい」 「サボってんじゃないの?そこのヒト」 ヒトって言うな、と御幣の暢気な物言いに思わず神和はつっこむ。それからまた、神和は話を続けた。 「そこの持ち主ってのが代々の土地を一切合財マンションにするって言うんで、祠を引っ越ししたんだそうだ。地方郷社のまた分社みたいな……屋敷神だろうな。で、この神様をつれてきたおかげで、山あり谷ありながらも一族郎党何とかやってきたんだと」 「へぇ……まじめな神様なんだ、珍しく」 御幣が感心してつぶやく。彼らは時に気紛れで、いくら上納しても全く何事もしてくれないことも多い。その癖態度は大きく、性の悪い政治家以下である。もっとも、相手は人智の及ばない存在だ。昨日今日の信心で動いてくれることは、まずありえない。 「それが、三カ月前に月次の地鎮祭をやった直後から、その辺が妙に静かになったらしい」 「静か?いなくなったって事?」 「さぁな。変わりに、何だか別の意味でざわざわしている気がする、とも」 神威とは、簡単に察知のできる代物ではない。しかし日々祈り、信心を厚くすることで次第にそうしたものを感じられるようになる体質を持った人間も、いないわけではない。だが、いなくなったような気がするのか、真実、いなくなったのか、否か。 「でもそれがどうして僕らの方に?そういうのこそ対処係でやるんじゃないの?」 「いろーんなところの仕事が重なって、そういうことに動ける状態じゃないんだとよ?ついでに言うと、そういうものの処理に行って一人ひどく穢れて帰ってきたそうだ。オマケに全治二カ月の大怪我だと」 「それで僕らに、ねぇ……」 納得しているようなしていないような口振りで御幣は言う。恐らくも何も、そんな危険なところに並の巫覡を向けても、被害が増えるばかりだとでも言われたのだろう。何か複雑だなぁ、胸中、御幣はつぶやく。 「鬼でも出たのかなぁ?じゃあ」 「お前をご指名って事はそうなんだろ。いいじゃねぇか、本庁一のデストロイヤー巫覡。まじめに働けや」 「何そのネーミング、ダサくない?」 けけけ、と声を立てて笑う神和をにらみつけ、御幣が言い返す。肩を軽くすくめ、神和、 「何だお前、神殺しってのが気に入ってんのか?実は」 「気に入ってはないよ。大体僕、あれを神とは思ってないし」 しらっと、いつもの顔で御幣は言った。 「神だって言うなら、総出でさっさとみんな救えばいいんだよ。っていうか、余所の宗教の神様のほうがしっかりしてるんだよね、概念。うちはいい加減すぎるから」 あーあ、と言葉の後にため息を吐くように言った御幣の言葉の後、何も言わずに神和は苦笑を漏らす。すでに、その現場も目前だった。住宅地の中でもやや奥まった一角の鉄筋の建物を見上げて、御幣が言う。 「さくさくっと斬って帰ろうか?じゃあ」 「いや、そこまでやらんでも……」 いつも以上の御幣の科白に、神和は語尾を濁らせた。 高すぎない住宅の屋上には、小さな空中庭園と、その一番奥に凝った作りの小さな社とがある。平日の午後だけあって、その場所は静けさに満ちている。赤い鳥居までもが設置されているのを見て、本格的だね、とつぶやいたのは御幣だった。 「でも……何もいないみたいじゃない?」 「そうだな」 そこには、そうしたものの気配がなかった。神前には榊と水、それに素焼きの皿に盛った米とがあり、祭られていることは確かなようだ。鳥が飛来するのか、あちこちにその粒がばらまかれていた。祠に近づいて、神和はその中を覗く。聞いていた話では地元の郷社、いわゆる土地神を祭る小さな神社の分社で、中にはその庭で拾った石とお札とが納めてある、とのことだったが、 「……カラか?」 無遠慮にもその扉を開け、神和が中を検分する。誰かが見てたら罰当たりな、とか言うよ、と言いつつ、御幣の態度も彼とほとんど変わりがなかった。小さな木の箱同様のその中には、紙に包まれた小石と、変色した和紙に包まれたお札のようなものはあった。が。 「……何か、出てきた」 もう一枚、小さな紙切れを見つけて神和はそれを引っ張り出した。 「何?これ」 見るなり御幣は眉をしかめる。くしゃくしゃに丸められたそれを広げると、その薄っぺらく小さな紙片は人の形を模していた。形代、いわゆる人形である。 「人為的に追い出されたな、こりゃあ……」 「でもどうして?ご利益のある、ありがたいヒトだったんでしょ?ここのヒト」 人形の頭の部分をぞんざいに指で摘んで、ぴらぴらと神和はそれを振り回す。傍ら、首を傾げて御幣はそれをただ見ていた。 「こいつに聞いてみるか」 ぽいと、神和がそれを投げる。紙片はひらりと音もなく足下に落ち、やがてかさかさと、小さな音を立てて動き始めた。ぴょこんと立ち上がり、それはその大きさのまま斎服と呼ばれる着物姿の小さな人へと変わる。顔を上げたその小さなものは、上げるなり踵を返して駆け出した。追いかけてその首根っ子を、ひょいと御幣が捕まえる。 「わー、何これ?おもしろいなぁ」 じたばたと、小さな神官は捕えられて暴れていた。笑う御幣を余所に神和は言葉を紡ぐ。 「いわゆる式神だ。低級霊を捕まえて鍛練して、紙に仕込む類の」 「低級霊?どのくらいの?」 「お前が叩いたら消えるぞ」 言われて、御幣はその小さなものをじっと見つめた。驚いたのか。それはびくっ、と痙攣すると、そのまま硬直して動かなくなる。 「いいから離せ。お前が傍にいると何にもしなくても消えそうだ」 言葉に、しぶしぶ御幣はそれを離す。ぽとりと落ちたその小さなものは、あわてて走り出し、つい先程まで自分が入っていたあの小さな祠に駆け込もうとして、再び捕えられた。今度は神和がその首根っ子を捕まえて、顔の前でそれをじっと見つめる。 「何かわかった?」 「こいつはほんの下っ端だ。何もわかりゃしねぇよ。もういい、行け」 ぽいと、再び神和はそれを投げ捨てた。手を払い息を吹きかけ、そのまま軽く握る。そうやって簡単にその手を清めると、神和は今一度その社を見て言った。 「これでここの主はじきに戻るだろう。後は、今のがどういうところから来たか、だ」 「って……逃がして良かったの?それって」 「うるせぇ。後なんざその辺の鴉にでも追いかけさせりゃいいだろうが」 御幣の意見に神和は言い返し、辺りをぐるりと見回す。そして目が合ったその黒い鳥を直接呼んだ。 「ちょっと頼まれてくれ、賀茂建角身の」 鳥は一つ鳴くなり、ばさばさと羽根を鳴らして彼の前に降り立った。賀茂建角身、三本足で有名な、先達の神の名である。その姿は良く三本足の烏で顕される。そして彼等は人よりも野生である分、己と良く似た神との感応にも長ける。名を呼んだ事で烏はその眷属となり、能く巫覡に使われる。 「今逃げてったちっこいのを追ってくれ」 言葉の後、鴉は頷くような仕種を見せ、その場から飛び立っていく。見送って、御幣は神和に問いかける。 「追えるの?あれ」 「ついて走る必要はない。お前はそこで大人しく待ってろ」 見送りながら神和が答える。また器用なことでもして追いかけるつもりなのかな。御幣がそう思った時、神和の上着のポケットから電子音が辺りに響いた。服装とそっくりに黒い携帯電話を取り出して、神和が電話に出る。 「はい、神和……」 サングラスをかけていてもその表情が柔らかくないことは見て取れる。言われた通りに、御幣は大人しく彼が通話を終えるのを待った。自分にも、もう少しいわゆる感応能力というものがあったらいいのに、とそんなことを考えながら。 「この間の石の祠を処理したヤツが判明した」 ピ、通話の切られた電子音とほぼ同時の神和の言葉に、御幣は二、三度瞬きして、 「それって、この間の中学の霊障の?早いね」 「ああ……ちょっとばかし厄介らしい。モグリの術者、だそうだ」 ふぅ、と神和は溜め息をつく。傍ら、御幣は笑って返した。 「そんなに心配することないって。そっちは僕が見に行くから、君は今の鴉を追っかけてなよ。居所は?」 「今さっき、そこに行ったヤツが瀕死で本庁に戻ったらしいぞ」 それでも一人で行く気か、と神和は言おうとして言えなかった。御幣は目をきょとんとさせ、それから、ニヤリと口元を歪めて笑う。 「へーえ……久しぶりにおもしろそうじゃん。多分対処係の面々も、君より僕を宛にしてるだろうし」 神和は何も言わなかった。そのまま、重ねて御幣は問いかける。 「それで、居所は?」 やめろと言って聞く性分ではない。見た目はまるで軟弱なお坊ちゃま風だというのに、腹の中は正に『神殺し』だ。思いながらサングラスの下で、神和はその眉をしかめ、 「……ここから車で十五分かからん、だと」 「じゃあとりあえず本庁から出てる人たちと合流して、何かあったら後で連絡するよ」 そして、いともたやすく御幣は言葉を返しその屋上を後にした。単独行動に出る、と言っていなかっだけまだいいかもしれないな、と、神和は自分に言い聞かせ、無言でその背中を見送る。無茶をしなければいいが、という心配は、はっきり言えばするだけ損だ。この際好きにやらせて後の責任も全部やった本人に被せるに限る。どのみち今いる部署は流刑地だ、そこ以下の場所に飛ばされる心配もない。 「建角身、どこにいる?」 御幣の気配が遠のいてから、空に向けて神和は声を投げた。呼ばれた時からそれは神使となり、審神者がそう決めたなら、にわかにそれらは神威をまとう。独自の、気配のような匂いのようなものを追って、神和はその場所を後にした。行った先で一人で処理し切れないような問題が待ち構えていた時は誰かを応援に呼ぼう。そう思いながら。 「……何これ。血?」 「さっきそこで派手にやられた……御幣?」 声に、何気なく彼は振り返る。アスファルトの上には大きな黒い染みができており、回りは黄色のテープで立入禁止にまでされていた。パトカーの警告灯があちこちで赤い光をふりまき、周囲は騒然となっている。宅地造成が及びかかっているその場所は、目と鼻の先には水田地帯が広がっていた。片田舎と呼ぶのも住宅地と呼ぶのも、どちらもそぐわない微妙な場所である。 「松浦……何してんの?あれ?対処係は?」 地鎮係の同僚、松浦千五穂がいるのを見付けて御幣は首を傾げる。彼女は彼の元へと歩み寄りながら、 「向こうで警察と話をつけている」 「何……警察沙汰?」 言葉に御幣は眉をしかめる。頷いて、松浦は説明を続けた。 「私のほうが、だが。地鎮と称して詐欺をしているヤツがいるから調査してほしいと言われて、来てみたらこの有り様だ。対処係は別件で来ていたらしい……結局、同じだったが。相当なものが暴れている」 「僕は、屋敷神を捨てた犯人がわかったって言われて、来たんだけど……」 「屋敷神?」 言葉に、松浦は眉をしかめる。御幣は首を傾げながら、 「うん……追いかけてきた対処係の担当者が大怪我して帰った、とは聞いてたけど……それも同じネタだったんだ。で、何がいるわけ?」 「神和は?見てもらいたいんだが」 その問いに答えず、彼女は逆に御幣に尋ねる。何がいる、とは、先に来ていた彼女達にも良く解っていないらしい。暗に悟って御幣は言葉を返す。 「この近くで、別の屋敷神を追い出した同業者を探して……」 言いながら、辺りを見回すようにしていた御幣は、何かを見付けてそちらを凝視した。ゆらりと、遠くで空気が微かにゆらいでいる。松浦も気付いたらしい。そちらを見やってその眉をひどくしかめた。 「……何?あれ。素面の僕にも見えてるけど」 「うちの巫覡とぶつかって、実体は無くしたんだろう。影だな」 「いやそれは……わかるんだけど……」 御幣は感応を苦手としている。もちろんその能力は皆無ではないが、備わっている、というほどにも使えない。人よりそういうモノに出くわすケースは多いため、それなりにもその判別はできたが、その頻度が高いために何となく感知できる、という程度である。凝視して、耳も澄ませて、鼻も利かせて、というようなことを試み、御幣は諦めたように息をついた。推測でしかないし、自分はそういう担当ではないから、と思いなおし、それでも彼は側らの同僚に問いかける。 「松浦、やろうと思ったら、その辺にいるヤツ捕まえて合体させることって、できる?」 「核になる強いものがいて、それなりの術者が死に物狂いでやれば、理論的には」 「あれって……そんな感じじゃない?」 「そうだな。そんな感じはある」 「へぇ、松浦にはそんな感じがするんだ」 平時と変わらない表情と声音で、二人はそれぞれにその目標を見ながらそんな会話をしていた。傍から見ていると、まるで『化け物退治』前のそれとは思えない、そんな平静さがそこにはある。当人達にとってそれは日常の一片であって、何事も特別ではないため、その落ち着きぶりも当然といえば当然だった。もっとも、落ち着くと言っても、松浦は仕事に対して真剣に取り組んでいるため、御幣の暢気な態度とは違ってはいるのだが。 「私では断言できない。審神者でなければ。下手に手出しできないものなら、尚更正確なことが解らないと」 「あ、そうなんだ?そういう意味なんだ」 それって実は謙遜だよね、と思ったが御幣はそれを言わない。彼女とも、何だかんだと付き合いが長い。もちろん、神和の心中も全く知らないわけではない。彼女とて、本庁の巫覡の一人だ。こうして処理に出向かされてもいるのだし、その能力は低くはないだろう。むしろ真面目で努力家だから、かなりのレベルのはずだ。それでも、と御幣は思う。事、『神』を見分けることに関して、その存在を察知することに掛けては、誰も神和には敵わない。それも彼の場合は望んででもなければ、そのために鍛錬したわけでもなく、一言で言うのなら『体質』だというのだから、努力を重ねてその能力を得て、更に磨こうという人間にしてみれば、羨望せずにはいられないだろう。神和くんって、ちょっとかわいそうだなぁ。松浦もその辺、複雑だしなぁ。余りにもその場にそぐわない事を思って、御幣は今傍にいない悪友に同情するように感じ入る。そんなことになど気付く訳もなく、その側らでは松浦が、真剣そのものの表情で、日が暮れるとあの類はもっと大きくなるぞ、と、呟いた。御幣はその、実体をなくして空気のゆらぎとなっている、恐らく元は肉を持たないであろう大勢が一つに練り固められた結果のものを、改めて今一度確認した。そこには一つの影と雑多な気配があった。どうもそれは、一つになっていることを同意していないものの方が多いらしい。一つに見えても、まとまった感じがしない。意思が数多く寄せ集まってはいるが、統一性がない。奇妙な合神、と言ったところか。思って、御幣はやれやれと息を吐いた。 「うちの巫覡って、全国的に見てもレベル高いんだよね?」 「どうだろう。修錬している分には、それだけの能力はあると思うが、神殺しには叶わないんじゃないか?」 笑いもせずに松浦は言う。目の前の立入禁止のテープを眺めて、御幣は再び嘆息した。下手に手出しは出来ない。それは相手が何者なのか解らないから、だけではない。その優秀な巫覡の一人が負傷して、瀕死の重傷を負っているから、でもある。呼ばれた理由は当然、それなんだけどさ、と心の中で御幣はぼやく。そして、自分がいなければ、そのお鉢が誰にどう巡るのかを思って、ちらりと側らを見やる。ついでに、こういう面倒な場に一緒にいて、彼女に危険なことをさせるわけにもいかない。当人に言うときっといやな顔をされるだろうが「女の子なんだし」それに、 「松浦にやらせた、なんてあいつに知れたら、厄介だもんなぁ」 小さく、御幣はぼやく。何か言ったか、と振り返った松浦を見て、ううん、別に、と笑って返した後、彼は笑うのだけをやめて、やはり驚きもおののきも、緊張すらしていない顔で、言った。 「じゃ、まじめに働こうかな。代表のつもりで。サポート、頼んでいい?」 応と答えて、こちらから頼みたいくらいだったから、と松浦は付け加える。傍らで、御幣は言葉なく苦笑していた。僕って大人って言うか、人がいいって言うか、友達思いって言うか、そんなんなのかなぁ、と、腹の中でぼやきながら。 鴉は真っ直ぐに、狙い定めたものを追いかけて空を翔けていた。しまった、せめて何か移動手段を考えておくんだった、とは、その鴉を地上から追いかけていた男の胸中である。空を飛んでいるものとそっくりに黒ずくめの彼は、日頃の運動不足がたたってか、走り始めてややもするとひいひいはあはあ、息も絶え絶えになってしまっていた。 「ちょっと待てっ……その辺で待ってろ!」 すでにそれは目で見える位置にはいない。後は気配をたどって最短距離とおぼしきを追いかければいい、とは思うものの、思うとするとでは大違いである。住宅地の一角でひいひいはあはあやりながら、神和は鴉に先達をさせたことを後悔していた。ついでに言えば、今回の件は自分達の管轄外なのだ。報告だけして適当に引き継げば事は足りたはずだ。珍しくまじめに働こうと思った自分が大馬鹿だった、と日頃の素行の悪さを思いながら、しかしあながち日頃の素行も間違いではなかった、何しろ疲れないしな、と、この男は変なことに納得さえしていた。とは言え、追い始めてしまったものは仕方がない。鴉だって、やらされているのだ。途中で投げ出したりしたら、それこそ降霊ごっこの『終わり』をしない女子学生と同じである。しかも自分がやっているのはごっこではなくて本物だ。余計に始末も悪いだろう。かがんだ格好で荒い呼吸を整えながら、神和はそう考え、その場でちっ、と舌打ちした。こうなったらもう自棄だ。とことん始末してやろうじゃねぇか。 「対処係の奴ら……ただですむと思うなよ」 「タダ?」 「おう、そうだ。この俺様をこんなにコキ使いやがっ、て……」 傍らからの声に無意識に答えて、それから彼はそちらへ目をやった。 「お前、使われているのか。では頼めないな」 それは、彼の足元にいた。顔を見上げて、しきりににゃあにゃあと繰り返し鳴いている。 「……頼む?」 そのにゃあにゃあと鳴くものは彼の顔を見上げて、その長い尻尾をゆらゆらと揺らしてみせる。鳴き声はにゃあと耳に響くが、それ以外の何かが神和の頭に直接響いていた。まん丸の目をした、一般家庭の愛玩動物の姿をしたそれは、困った口調で言葉を続ける。 「我々の小さい眷族が、厄介なことに使われているんだ。下手をすると百近く、一気に消滅させられかねない」 それはその体に入り込んだ、別の存在の言葉らしかった。語っている言葉は人語でもなければ獣の言葉でもないだろう。神和はその場に膝をつく。そして改めてそれに問いかける。 「……何だ?そりゃあ」 「本当はこういうのに憑いていても、近頃では危険なんだ。惨いことをするのがいて、つかまえて引き裂いたりするから」 まだ若い地霊のようだ。己だけの力では意志を伝えることすら叶わないのだろう。にゃあにゃあなあなあという声にまぜ込むようにして、その思いを神和に伝えようとしている。 「我々の眷族が百ばかり練り合わされて、この向こうで今、人間を殺し損ねた」 「……何?」 見た目や、その言葉遣いとは裏腹に余りに物騒なことを聞いて、神和は眉間に皺を寄せる。にやあにゃあ鳴くそれは、構わず更に言った。 「そうしたら我々の大嫌いなヤツが出てきて、どうにかしなきゃと言い始めた。お前、人ならあいつを止めてくれ。我等では、あれをどうにも出来ない」 「って……言われても……なぁ……」 その唐突な出現とお願いに、さしもの神和も驚き、返答のしようがなかった。猫の体を借りた若い地霊は、なおも言葉を続けようと、にゃあにゃあと猫を鳴かせる。 「あんなのにやられたら、ここら一帯みな滅びてしまう。我々も恨むぞ。そうすれば辺りは崇り神でいっぱいになって、土地がここから死に絶える」 彼の言うことは正論だった。土地には、その場所ごとに神が住む。土地神と呼ばれる彼らは土地そのものであり、いなくなればその場所は崩壊の一途をたどる。恨みを残したまま消されれば、残った恨みが崇り神となって禍を巻き起こす。かと言って、人死にを出すほどのものを放置するわけにはいかない。 「俺も忙しいんだ……近くに話の通じるヤツが他にいるから、そっちにあたってくれ」 「それはもういない。死ぬか生きるかで血塗れになった」 あちらを見ろ、と、言われて神和は猫が向いた方向を眺める。閑静な住宅街、一歩外れれば農地のそばという人気の少ない通りの向こうには、少ないながらもかなりの大きさの人垣ができていた。何だ、と思って神和は僅かに目を開く。それは問いではなく、確認だった。異変がある。その距離からでも、その辺りであった尋常ならざることが、読める。それが国内一とまで称される、彼の審神者としての能力だった。そして、それを読むまでもなく感じている彼に向かい、それは更に言った。 「あの向こうから血の匂いがするだろう。そのもう少し向こうに、我らをたやすく殺すものがいる。国津神を打ち斬る、怖ろしい巫覡が」 「……御幣が?」 どうしてこんなところに。確かあいつは対処課の手伝いに走ったはずなのに。思いながら神和は息を飲む。 「……おいネコ!一体何があった?」 「我らは素でいてもつかまる。何もいたずらしなくても。お前達が詐巫と呼ぶ嫌なヤツだ」 いまいましげに言って、我はネコではないぞ、と彼は付け加えた。詐巫、読んで字のごとく、その技をもって詐欺を行なう能力者、性の悪い霊感商法詐欺師とでも言ったところだ。そういうものが近くにいて、この近辺の雑霊は愚か地霊その他を集めて練り合わせた、とでも言うのか。 「では頼まれてくれ。このものにも、そろそろ体を返してやらないといけない」 くるりと、ネコはその場で踵を返した。神和は無言でそれを見送り、ため息を吐きながら、いらだたしげにその髪をばりばりと掻く。 「ったく……人を何だと思ってやがる」 相手はその人よりも自分達を高位であると自負している。故に彼等は、中でも彼は特にそれらに酷使される気がする。それは能く感応するためか、実は人が良いからなのか。確かに自分は超絶美形様で、その自覚はあるし、それで好かれていい目も見て来たが、その見返りがこれか。思いながら、神和は舌打ちする。頃合を見計らったか、頭上からも彼を呼ぶ声は響いた。使っていた鴉が、追いついたと知らせているようだ。 「あーあー、わかったわかった。すぐ行く!」 声を荒立てて神和が叫ぶ。鴉はくるくると空で旋回し、声を放ってなおも彼を呼ぶ。 「チキショー、どうして俺がこんな……」 言いながら神和は駆け出し、その目の前を見やって不意に足を止めた。黒山の人だかり、その真上でぐるぐると鴉は旋回を続けている。そこに逃げ込んだのか、それとも。上からその黒い鳥が己の困惑をも伝える。一瞬眉をひそめ、それから確かめるように、神和は呟く。 「気配が、消えた……吸い込まれた?」 ゆっくりと太陽が西に傾いていく。薄暗くなるなあとのんきに思いながら、御幣は黄色いテープの中でその西日に完全に背を向けるようにして立っていた。眺めている方角には、まだ宅地開発が進んでいない山林が黒く見え、辺りはバタバタと騒がしいが、自分の回りだけは奇妙に静まり返っていた。警察、加えて彼らの本庁からの応援が右に左に走り回る。山狩りでも始めるのだろうか。そんな雰囲気だ。 「御幣」 「んー?もう動いてもいいって?」 背後から声がかけられると、振り向きもせずに御幣は問い返した。やる気が、あるのかないのか。そんな怠惰な声色に、彼を呼んだ松浦は微かに苦笑する。 「余裕、だな。普段通りに」 「よゆーってゆーかさー……だりぃって感じ。さっさと動けるようにならないのかなぁ……あれだけ臭えば、僕にだって位置くらいわかるよ?」 やや大げさに、困ったように御幣が言う。松浦は苦笑しながら、 「じきだ。今何に罪をきせるか考えているらしい。あれだけの流血騒ぎだ……野犬では利かないだろう」 「くまも出そうにないしね」 振り返って御幣が苦笑を漏らす。そして、 「さすがに新聞発表で【九十九神、人間と格闘!】なんて書けないもんね……この国じゃ」 よくある話なのに、とその後彼は付け加えた。軽く笑い、松浦は山影を見やる。九十九神、類は友を呼ぶ、なる言葉がもっともわかりやすいだろう。その存在のあるところに、気配に引かれて同種の存在が集まり、一つになったものを呼ぶ総称のようなものだ。が、今回のそれとは厳密には違う。自ずから寄り集まってしまったものではなく、集められて練り合わされたもの。能力者は時として低級、力の弱いものを捕えて仕込み、使役する。性質としてはそちらに近い。よく聞くところの式神、護法はその代表格だが、それらを駆使することができる能力者は滅多にはいない。しかも都合の悪いことに、何がどういう理由でそんなややこしいものになっているのか「解るまで手出しはするな」との達しまでもが、その件に関して主導権を握っている対処係の面々からも出されてしまっていた。人がせっかくやる気になってるのにさ、そんな感じで御幣の機嫌は、実は余り良くない。 「何かテレビの話みたいだね……地味だけど」 「事実は小説より奇なり、って言うからな。オカルト番組見て騒いでる奴らにこの現状を知らしめてやりたいもんだ」 疲労困憊の低い声が不意に耳に届く。振り返って、御幣は目を丸くさせた。それは傍らの彼女も同様だった。 「……神和?何してんの?こんなとこで。自分の仕事は?」 いたのは、いつぞやに現場で別れた直属の上司だった。なんだか随分と疲れて、おまけにテンションもやや高めである。振り返りざまの御幣の言葉に、そこにようやく到着したという思いの彼はひどく眉をしかめた。言葉のない間も、口からはひーひーと、情けないほど派手な呼吸音が漏れている。 「おう、仕事だ。仕事中だよ俺は!」 「……キレないでよ、何かあったの?」 「あったもくそもあるか!おい御幣!」 普段通りのその態度が、疲れきった体には余計に堪える。思いながら神和は彼に詰め寄り、その襟首を捕まえてねじ上げた。 「な……何?僕なんか気に触ることした?」 「あの、今逃げてるヤツ。分散させろ」 「……は?」 唐突な登場と意味不明の言葉に素直に御幣は首を傾げる。傍ら、松浦はその様子を見て言った。 「わかるのか、神和」 「おう、わかるもくそもあるか。ここに来る途中で近所の土地神にレクチャーされた。ありゃあ……」 「人為的に作られた九十九神だ。実体を得ていたが、対処係と衝突したおかげで、今は影しかないらしい」 解りきったことを松浦が前に口にする。科白をとられた格好の神和はそちらを見やり、わはは、と、わざとらしく無理矢理笑った。 「解ってんじゃねぇか。だったら話は早い。一体たりとも殺すな。全部たたり神になってくれるそうだぞ」 「そんなこと言ったってさぁ……実害が出てるんだよ?遠回しの不幸とかじゃなくて」 襟をとられたままの格好で、今更かよ、と言いたげに唇を尖らせて御幣が返す。今一度彼をにらみつけ、神和、 「何も指くわえて見てろとは言ってない。殺すなと言ってるだけだ。そのくらいの分別くらいつけろ、この壊し屋」 「じゃあ上にそーゆー提案してきてよ?そこに対処係の植芝さん来てるしさ。大体、そのくらいのことだったら審神者の一人くらいいなくても解ってんのに、人のこと応援に呼んどいて『大人しくしてろ』だよ?腹立つと思わない?」 「んなこたぁ俺が知るか……対処係?何だ、そりゃあ」 御幣の不服そうな言葉に勢いで言葉を返してから、神和はその眉を顰める。そして、やっと気付いたかのようにその側らにいた松浦に向き直り、 「……松浦、なんでこんなとこにいる?」 目を丸くさせ、その綺麗な顔な間抜けなほどの驚きを浮かべて神和が問いかける。松浦は少し呆れたように息を吐くと、事の次第を簡単に説明した。 「詐巫の調査に出ていたら、同じ術者の件で対処係が動いていた。で」 「それがたまたま僕が呼ばれた騒ぎと犯人が一緒だったらしいんだ。で、君の方は?」 神和はそこで凍りつく。そして、全く楽しくなさそうな顔で、わざとらしい声を立ててわはは、と笑って見せた。なり、唐突に不機嫌を露わにして、憤りを隠さない口調で言葉を放つ。 「ばかやろー、俺は自分の仕事を全うしようとしただけだ」 「って、ここですねられてもなぁ……」 御幣は困ったように言ってその視線を松浦へと向ける。助けてくれ、と訴えるその視線をほぼ無視して、松浦は構わず、そんな神和に改めて問いかける。 「何があった、一体」 「……俺にも良くわからん。対処係と取り替えた仕事で式神もどきを追ってたら、ここに来る直前にでかい何かにそいつが吸い込まれた。で、ここに来る途中で出くわした若い地霊に頼まれたんだ。そこの馬鹿があれを粉砕したら、全部が崇り神になるから、何とかしてくれ、ってな」 「それ、何か酷い言われ様なんだけど」 そこの馬鹿扱いされた御幣がそんなことに不機嫌になって眉を顰める。神和は笑いもせず、ただ疲れただけのような息を吐き出し、なおもいらついた声で言葉を続けた。 「ったく……係長ともどもお出ましなら、こんな仕事俺に振るなってんだ。何が人手不足だ。リサーチが甘いだけじゃねぇかよ」 「いやまあ……そうなんだけどさぁ、確かに」 「こちらとしては助かる気もするが」 神和に同情するような御幣の言葉の後ね淡々と松浦が言う。神和、御幣はそろってそちらに向き直り、変わらずに冷静、と言うより冷淡にすら聞こえるその続きを聞いた。 「あれが何なのか、解るのか?」 「いやだから……さっきお前が言った通りの……」 「私の方は警察がらみだ。いい加減な情報では下手に動けない。それで御幣も随分待たせている。あれが何なのかはっきりさせて、どう対処するべきか。審神者の意見を聞きたい」 男二人はその、余りに事務的な言葉の後に黙り込み、何気にお互いの顔を見合わせる。そして、 「いや……とにかく何かの集合体ってことは、解るんだが」 「僕は別に、待ちぼうけですんだって、どうって事もないし、ねぇ……」 「これだけの騒ぎを起こして、怪我人も出ている。その上、地霊にまで訴えられたんだろう。こちらとしても、理由は違うが早く片を付けたい事に変わりはない」 それぞれに何となくの言い分を口にするが、松浦の態度も口ぶりも全く変わらない。もう一度、二人は顔を見合わせた。そして、 「御幣、何とかして来い」 「何とかって、どうすんのさ?」 「何とかって言ったら何とかだ。警察への言い訳だったら俺が考えてやる」 「神和くん、それちょっと無理があるんじゃない?って言うか、僕が下手に手出ししてみんな粉砕したら、困る事になるって今言ったじゃない」 「だったら粉砕しないように何とかしろ。心配するな。お前はやれば出来るんだ。分解と粉砕、よく聞いてみたら音も似てるしやることも……大差ないだろ」 「って言うけど、それを勝手にできないから、長い事待たされてるんだよ?僕。その辺のこともう少し考えて物言いなよ」 「そんななぁお前の名前で何とかなるだろ。部長の弟って役得はどうした、え?」 「それって職権濫用じゃない。第一僕が兄貴と仲悪いの、一番知ってるの君だろ?」 「お前は直属の上司の言うことが聞けんのか」 「たかが主任じゃん。年が一個上ってだけの」 先に口を開いたのは神和で、普段どおりに返したのは御幣だった。そしてそのまま、普段どおりの痴話喧嘩ともつかない口論が始まり、しまいには関係のないことにも話題が飛び火する始末である。 「二人とも、いい加減にしろ」 松浦がやや強い口調で言い放つ。そろって振り返り、大の男はそのまま押し黙った。 「何者かの判別はまだ付いてはいない……が、要するに、あれを無害なものに戻して元に返せばすむんだな」 「……それは、そうだが」 「どうやってするのさ?松浦」 目を丸くさせ、口々に、二人は目の前の、ややもすると「恐い顔」の美人に問い返す。松浦、しばし考え込み、 「術者を探せばいいことだ。神和」 あっさりと二人の疑問に答え、松浦はあごをしゃくった。え、と、思わず言い返して、神和はそんな彼女の言葉を聞いた。 「対処係の巫覡と探索を始めろ。御幣はあれを捕獲に行け。私がサポートする」 「ちょっと待て!千五穂。なんで俺が……」 「捕獲?けど……」 「警察への言い訳を考えるのも感応能力者の仕事だ。あれに適当な名前でも理由でも付けたらいい。正確な位置と大きさ、それに正体が解ればこちらのすることも楽になるし。その後のことは任せろ。実働は私達がする。捕獲は、処理までの足止めだ。日が落ちてまた実態を取って暴れられでもしたら被害が広がる。それは避けたい」 「って、だからってなんで俺がそこまでしなきゃならん?対処係の連中に任せたらいいだろうが!」 「それに、捕獲したところで被害が食い止められるとは限らないじゃない?そもそも、あれを追い込めても捕まえるのは無理だよ。実体がないんだし」 二人はふたたびそれぞれにその言い分を口にする。神和の言葉はともかく、御幣の言い分にはもっともなところがある。が、 「足止めさえ出来ればそれでいい。捕獲は、神和が術者を探し出すまでの時間稼ぎだ。そうでもしないと対処係の独断で、あれは勝手に処理されかねない。神和、植芝係長には会ったのか?」 「いや……まだ……」 「多分対処係の連中はあれが何なのか把握し切れていない。気配が雑多すぎてあちらの術者では判別も付けられない状況だ。貸しが作れる」 僅かに、松浦が笑う。神和はその言葉に少々驚き、それから僅かに思案する。見て、隣の御幣は、またくだらない悪巧みでもしてるのかなぁ、と心の中で呟く。 「何が原因でどう処理したらいいのか、それが解ったらそれ相応に動けばいい。何しろここには国内で最も優れた審神者と戦闘巫覡がいる。不可能ではないだろう」 「まぁ……それは……」 「そうだけど……」 二人の言い分はあっさり退けられた。何やら乗せられた感もあるにはあるが、と二人は揃って思ったが、特に異存はないらしい。松浦は軽く息をついて、今一度神和に問いかける。 「本庁一の感応能力者なんだろう?あれを作った術者が近くにいるかどうかくらい感じないのか?」 「そうだよねぇ……わかんないの?」 そして何故か同調し、御幣も問いかける。神和は、ちっと舌打ちし、吐き捨てるように言った。 「……さっき追いかけてた式がこの辺で消えてる。多分お前らの獲物に吸収されたんだろう。推測だが……そういうものを扱える術者が一箇所にぼこぼこいるとは思えない」 「って……じゃあ同一犯って事?」 思い至った御幣が驚いて叫ぶように声を立てる。むすっとした顔で、神和、 「あんな紙切れの小さいヤツじゃなく、もっと規模の大きいのを作りたかったんだろ?強いのを捕まえるのは至難の業だが、ちっこいのを寄り集めるなら大して労力もかからない。勝手に呼び合うしな。本人でなきゃ理由までは解らんが、何しろ詐巫だ。そのくらいのことをしそうだと、予測はつく……こんなことになるとは、奴さんも夢にも思ってないだろうがな」 「うっわー……考えたんだか考えてないんだか、わかんないねぇ……」 素直なところを御幣は述べる。首を傾げて、松浦、 「それが暴走したわけか……なるほど。『モグリの地鎮業者』ならやりかねないな」 「あくまで俺の推測だがな。そう考えると解りやすいだろう。同業者には技術の向上を生きる喜びみたいにしてるヤツも五万といるし、それに真っ当な手を使わないヤツも同じくらいいる。問題はそいつがどこでこの状況を楽しんでるか、だ」 どこかいまいましげに言ってから神和はその視線を松浦へと向けた。サングラス越しではあるが視線を感じて、松浦はかすかに首をかしげる。 「松浦、今回はお前の言うことを聞いてやる。本来ならこんな面倒くさい事には関わりたくはないが、俺としてもその方が都合がいい。近場で崇り神なんか出されたくもないし、対処係の連中にも貸しが作れるだろうしな。だが、これは貸しだ。高くつくぞ。覚悟しとけよ」 言って神和はニヤリと笑う。松浦は何も言わず、どこか憮然とした顔でそんな彼を見返していた。何を悪巧みしたんだろうなぁ、と、御幣はまた心の中だけで呟く。そして僅かに、松浦を案じてもみる。否とも応とも言わない松浦を見て、変わらず神和は、どこかご機嫌だった。そして不意に踵を返す。 「神和くん?どこ行くのさ?」 「言っただろうが。対処係に貸しを作りに行ってくる」 「またそんな減らず口叩いて。植芝さんと変なところでもめないでよ?後で八郎さんにお小言食らうの、僕も一緒なんだから」 「任せとけ。俺を誰だと思ってる。本庁、いや国内随一の審神者、神和辰耶様だぜ」 歩き出し、本気とも冗談とも付かない口調で言って神和はひらひらと手を振る。見送りながら、御幣、 「早いとこすませてよ?やれるだけのことはするけど、もしバトルになったりした時、手加減するのって難しいんだから」 「おう、期待してろ」 言い残して神和はその場を歩み去る。ある程度まで見送って、御幣はそれから、先ほどから黙ったままの松浦へと振り返り、何気に笑った。彼女の方はと言うと、やや難しい顔で、神和の去った方角を向いたままだ。が、 「……何がおかしい?」 「やだなぁ、別に何もおかしかないよ」 「……これは貸しでも何でもない。仕事だ」 「解ってるよ、そんなの。て言うか、そういうのは彼に聞こえるように言わないと、意味ないんじゃないの?」 何やら楽しそうに御幣の口ぶりに、ややもすると怒りの表情にも見えそうな顔つきで、松浦は振り返る。それを目の当たりにしても全く怯まず、にこにこ笑ったままで御幣は言った。 「神和くんも真面目に働いてくれるみたいだし、僕らも気合入れて仕事しようか。僕らは実働が本分なんだから」 松浦は何も答えない。言っている事に反論はないらしいが、彼の顔つきが気に入らないようだ。御幣はその態度に、その表情を困った笑みに変えた。普段はちょっと硬いかな、くらいの人なのに、怒らせると怖いんだよなぁ、松浦って。美人だから迫力満点だし。御幣がそんなことを思っていると、松浦はその視線を彼方、件の目標へと向け、言った。 「そうだな。真面目に働こう。実働が私達の本分だ」 それは一つの意志で動いてはいなかった。一体どれだけのものが繋ぎ合わされ、練られたものなのかそれ自身にも自覚はない。ただ、狭いところに無理矢理に押し込められて、何だ何だと皆が言っている間に奇妙に膨れ上がり、その器からあふれていた。最初は、秋の集まりのようだなどと楽観視していたものもいたが、次第にそれとは全く違うことに気付き、そうしたものほどその事実に驚き、戸惑っていた。時折気に入ったもの同士が一つにまとまることも、その世間では少なくなかった。が、それにしたって数が多過ぎだったし、彼らの意志とは関係なく一つにまとめられて、いささか憤慨しているものもあった。それらには意志があるのだ。いや、意志しかないのかもしれない。強く念ずることによって生じたものもあれば、誰か他のものの意志によって生まれたものもあり、吐き捨てたため息の中に残留する不快感から生じたものもいた。彼らは神と呼ばれるものだ。そして神とはそんなにも、曖昧でいい加減で、感情的で気紛れなのだ。寄り合わされ、練られ、一つの大きな塊となった彼らはやがてまた別のものの意志と作用によって、いわゆる実体を得た。肉の重い体は彼らの意志通りには動かず、厄介なことに痛みさえ感知し、やがて共通の感情をもたらす。いらだち、怒り。通じ合ったものがそこに生まれたとき、寄せ集めの彼らはその力をようやく束ね、その不快な器から逃れようと、いらだちのままに暴れ始めた。それを阻止しようとした人間を一人瀕死の重体に追い込み、その時に得た衝撃で、かろうじて実体化した器を脱ぎかけた。しかし。 「別についてこなくても良かったのに……」 辺りにはろくに明かりもなかったが、御幣鼎にはその視界ははっきりしていた。そういう体質だからね、と一口に彼は言うが、それがただ体質というだけでないことは、周知の事実だった。それは彼の能力ゆえに、もしくは本能ゆえに。元々そうした能力者の家の生まれではあるが、それにしても彼はずば抜けて強い。この国の巫覡は基本的に荒事を得手とはしていないし、仕方も、彼とはずいぶん違っている。祈りによる鎮魂、浄化、封印、供養。それらが主な神の鎮め方だが、彼の場合はそれらを、文字通り殺すことができた。そして記録に残るものの中には、巫覡がそれを行なった例よりも、武人が切り捨てた例の方がはるかに多いのである。異形の巫覡、神殺しの御幣。彼がそう仇名されるのも不思議なことではなかった。 「一人で動くのは危険だ。それに、ふとした拍子に消滅でもされてしまったら、神和がかわいそうだ」 「神和くんが、ねぇ……かわいそうかな?」 全然そんなことないな、と、御幣は胸中でつぶやく。彼にしてみれば、自分が属する団体において異様なまでに神が多いことは理解できることではなかったし、それらを「神」という概念では捕えていなかった。ただそこにいる、肉を持たない意志体。その全てが古代において神と呼ばれていた。そう呼ぶのはその名残りであって、呼び方はいくらでも変えられる。そしてその呼ばれ方で、彼らもその性質を変えきてきた。例えば狐は、神使と呼べば神の使いとなり、稲荷と呼べば商売繁盛の守り神となる。そうした性質を、彼らの「神」は持っている。いわゆる怪異を起こすものたちさえ、そこでは神と呼ばれるのだ。 「もし、いわゆるモンスターを始末しろって依頼が来たら、その時もやっぱり止めるかな」 「それはどうかな。実害が出て、神和自身がそう判断したなら止めないだろう」 「神和くん自身、ねぇ……問題はそこんところだよ。彼あんな風だけど根は真面目だし、実は小動物ともお話出来ちゃうスキルの持ち主だし。それをそう判断なんて、出来るのかなぁ」 何やら不服というか、不審の面持ちで御幣が言う。かすかに松浦は笑うと、 「審神者というのはそういうものを判別するのも役目だ。出来ない、では困る」 「それはまあ、そうなんだけどさぁ……」 「そんなに心配する事もないだろう。ヤツはやることはきちんとやる、そういう人間だ」 松浦の言葉に御幣は黙り込み、そうかな、そうだったかな、と胸の中だけで言ってみる。そしてまた、目標物を何気に見遣った。御幣自身に識別、判別、確認、の能力は、余り備わっていない。確実にそれを試みようとするには、その術を得手とする人間の手を借りるか、もしくは自分自身を戦闘体勢に置かなければならない。世間一般で言われるところの霊視程度であるなら、「慣れ」の結果できなくもないが、この状況下でそれではおぼつかないので、 「松浦、周りの感じ、わかる?」 「周り?」 「僕、ああいうのの位置正確に見ようとすると、戦闘オーラ出ちゃうんだよね。そうすると、神和くんに前言われたんだけど、周りに凄い影響出るみたいなんだ。ひどい時は……」 御幣は行って、何気にその手を振り上げた。松浦は何事かと、それをただ黙って見ている。どこか怠惰で、眠そうにも見えるよう顔つきで御幣がその手を軽く振ると、ひゅっ、という音と共にその手の周囲に青白い光が発生した。そして、 「ああ、やっぱり。漏れてる」 「……御幣?」 その青白い光に、松浦は息を飲む。御幣は困ったように笑うと、無言のまま、先ほどから捕捉している目標の影をあごで示した。遠く、獣の様な悲鳴が聞こえる。 「今ので、やけどくらいしたかも」 それが御幣鼎の「神殺し」の能力、というより体質だった。その全ての存在に忌み嫌われる、破壊の力。意識しようがしまいが、彼の体からそれは常に滲んでいた。故に彼はそれらに嫌悪され、避けられ、時には逆に殺傷されそうになる。その力が暴走した時、何事が起こるのかは、想像に難くない。松浦はかすかに息を飲む。知らない訳ではなかったが、改めて目の当たりにすると、驚かずにはいられない。それが鍛錬の積み重ねで得られたのならまだしも、御幣の場合はその逆で、鍛錬によってそれを制御しているだけ、というのだから。巫覡に、破壊能力は必ずしも必要ではない。だが、そこまでの力の違いを見せられるのは、正直気分のいい話ではない。 「流石、と言うか……」 「何それ、ほめてんの?僕としては傍迷惑なスキルだよ。お蔭で、対処係の連中とか、実の兄貴とも折り合いがつかない」 本気ともジョークともつかない口ぶりで御幣が言う。松浦は笑うことも出来ずに、どこかうんざりしているような御幣の横顔を、ただ見ていた。御幣はそちらを大して気にせず、言葉を紡ぐ。 「今ちょっと考えたんだけど……真ん中で核になってるヤツ粉砕するのも、やっぱだめかな?そしたら、周りにくっついてるの、勝手にばらばらになると思うんだけど」 口ぶりは変わらない。というより、先ほどから御幣はそのことに集中しようとしているらしい。なんだかんだ言っても、彼も自分の役目に忠実なようだ。松浦は苦笑した。そして、その苦笑を含んだままの声で答える。 「上手くいけばそれで済むだろう。だが、核が何か解らないうちは、下手に手出しをしない方がいいんじゃないのか?」 「あー……そうかー……じゃ、まだしばらく松浦に頑張ってもらわないといけないね」 子供っぽく、しかし心底困ったように御幣は言う。松浦はまだ苦笑のまま、 「これが仕事だから、別に構わない」 「神和くんがそういってくれる人間だったら、嬉しいんだけどなぁ……僕としても」 何気に、御幣の口から愚痴がこぼれる。やはりこれは余裕の現われか、思いながら松浦は目標物へと視線を向けた。意識を凝らして凝視するようにすると、その姿はたやすく彼女にもみる事が出来た。気配は、先程より色を濃くしている。黄昏の影響は強いらしい。そして、僅かながらも攻撃を受けたそれは、その相手を探すようにあちらこちらを伺っているようだ。やがて、影は二人を察知して、ゆっくりとその頭をもたげた。ずるずると闇の中から這い出したものは再び実体を持ち、恐らく頭数分の目をその表面に浮かべて、それに相当する大きさの口を開けて、中から触手とも舌とも言えないものを、やはりその数だけ覗かせる。それが松浦には確かに、御幣にはおぼろげに感じられるその影のとった「姿」だった。 「何とも言えないプリチーさ加減……かも」 目を凝らすようにし、多少なりともうめくように御幣は言う。松浦は平然とした様子で、 「好きだろう?こういうの。いつか飼いたいと言ってたし」 「……小さかったらね」 松浦の冗談とも本気とも取れない科白に、思わず御幣はそう言葉を返した。 本庁業務部巫覡課の規模は、ごく小さな地方自治体の地方事務所の各課サイズと大差ない、余り大きくない部類に入る。その巫覡課内に設けられた係職は三つ、対処係、地鎮係、そして本殿祭礼係である。 これとはまた別に巫覡課長直属の部署があるが、そちらは係ではなく班扱いであり、各係とは別の管理下におかれているため、待遇、及び職務内容が大きく異なっている。 本殿祭礼係においては常時、教団の一施設である神社、大御坐神宮に駐在し、その名の通り神宮本殿における祭礼、及びその運営を担当している。事実上本庁の本部棟内に置かれている巫覡課の係はこの二つになるのだが、その構成も職務内容その他の違いにより、格差があるようである。並立していて然り、というのは世の常識なのだろうが。 「……くそ、見えやしねぇ」 そのころ、神和は何をしていたかというと、 「この水鏡、水道水使ってねぇだろうな?」 急作りの祭壇の前で必死になって探索をしていた。九十九神、というが事実どれだけのそうしたものが寄り集まっているのかも未だわからず、審神者としての彼のプライドは、やや危険な状態でもあった。見れば一発でわかる、筈だがそれが上手く見えない。ついでに言うと作った術者の気配を追っているはずなのに、その九十九神しかそこには映らない。それだけ強く気配が残っているのか、それとも鏡が悪いのか。自分が悪いとは全く考えずに神和は悪態を吐く。傍ら、その様子を見ていた対処係係長、植芝が堪り兼ねて言った。 「こちらに手抜かりはない。下準備は完璧なはずだが?」 「じゃあ俺が悪いんですかねぇ……本庁随一の審神者ってあんた達が呼んでるこの俺が!」 直属、ではなくとも一応上司に利く口ではないが、本人全く気にしていない。植芝は、 「何か別の要因がからんでいるのかもしれんだろう。それとも何か?うちのやり方に文句があるとでも?」 そう言って、ブツブツ言っている神和をにらみつける。どうにも、やりにくくてかなわない。それが神和の正直な感想だった。今現在処理に当たっているこのケースは、対処係が処理している最中のものであり、本来なら自分が出張る必要のないものである。が、松浦に半ば乗せられたとは言え、どうして自分がこんなところでこんなことをしなきゃならんのだ、という気持ちは、ないわけでもなかった。地霊につかまって、何とかしてくれ、と言われた事はさておき。確かに『貸しが作れる』と聞いて、その松浦の言葉に乗ったのは自分である。それでも神和は思った。俺はどうしてこんなところで、こんな面倒な事に付き合ってるんだ、と。彼の個人的な人間関係からしても、そこでそうしていることは少々奇妙といえばそうだった。同じ課内の二つの係である。特別何かがあるわけではないが、係長の年齢差その他の為に、対処係と地鎮係は仲がいいとは言いがたい関係にもあった。俺は植芝係長とは合わない。一口に言うとこうである。 その対処係長、植芝は神和がそこに来た当初から、水鏡を覗く彼の様子を側らで見ている。見ているというより監視でもしているような気配である。少なくとも、神和にはそんな感触がないわけではない。植芝は彼が高校生のころから本庁巫覡課に所属する、本庁でも、教団の付帯組織である高校、特殊更正施設、施療施設でも名の知られた「武闘派巫覡」とも呼ばれる人物である。かつて素行の宜しくない高校生活を送っていた神和も、彼の世話になったことは一度や二度ではない。そのために、いまだに、というのも妙な話だが、神和は彼を苦手にしていた。あちらも、どうも好意を以って接してくれてはいないらしい。四十がらみの男に好かれても嬉しかないが、と思うと同時に、自分を嫌いな人間、しかも男を好意的に見てやる必要もない、というのが神和の言い分だった。ち、と神和は舌打ちし、視線を反らして言葉を吐き出す。 「そっちの方はどうなんです?この辺の術者の洗い出しは?」 「今やらせているよ。該当者らしきはまだ出ていない。うちの管理下のリストにもない、モグリだそうだし」 「……責任逃れかよ」 つぶやきは、かろうじて耳には届いていなかった。植芝は表情一つ変えず、少し困ったような目つきで、換わらずに神和を見ていた。困っているのはお互い様だ、という様子である。神和は鼻を軽く鳴らして再び水鏡に対峙した。審神者は感応能力者の一種である。神もまた嘘をつく。そのため、見分ける能力を持ったものがいて、その正邪を確認することがその役目であるのだが、その優れた感応能力を利用して探索を行なうこともしばしばである。水鏡は、その力と視界のための、言わばブースターである。専門用語で言うなら触媒。それによって広い範囲のものを感知することが通常ならば可能なのだが。 「……くそ、こいつしか映らねぇ……そばにでもいるのか?」 つぶやいて、そのつぶやきに神和自身がはっとする。そう、自分に見えないはずがないのだ。それは過剰な自信ではなく、あくまで神和の感覚だった。感じてはいる。掴んではいる。それで見えない、そんなわけはない。よほど巧妙に隠されていない限り、彼の探索能力、というより体質に翳りが現れる事は殆どない。国内最高の審神者、とは、それゆえの仇名である。そこにそれだけしか映し出されないという事は、そこにはそのものしかないという事になる。だとするなら彼の探すものも、そこにあるそれでしかない。何だそうなのかよ、と、小さく神和は呟いた。そして、ははは、と乾いた笑い声をもらす。植芝は眉を僅かに動かし、 「どうした、神和。何かわかったのか?」 「こいつの……中に術者がいる」 問われて、神和は答えた。何、と植芝がその水鏡を覗き込む。 「作った直後に食われてやがる……バカだ、こいつ」 言い放ち、神和は水鏡から僅かに後ずさりする。植芝は水鏡の九十九神と神和とを見比べ、微かに息を飲んだ。 「誰が見たって見付かりっこねぇ訳だ、別に動いてる術者なんて、いねぇんだから。こいつ、ある程度のサイズになった九十九神に自分が食われてやがる」 「制御しきれなかった、と?」 驚きを含む声の植芝の問いが聞こえる。鼻先で笑いながら、神和は言った。 「まんま、その通りですよ。一匹ずつはちっこいヤツでも、それなりの頭数になりゃそれなりのサイズになる。二匹三匹のうちは簡単にコントロールできてたんでしょう。でも決定打を忘れてた。集まってサイズがでかくなりゃ、そのものの力も臭いも当然強くなる。そうすれば寄り集まろうとする力ももっと強くなる。当然……反発する力も増幅する」 にやりと、神和は笑う。そして笑いながら更に言った。 「さっきの暴言は取り下げますよ、植芝係長。どういうポカやって怪我人まで出したんだかとも思ったが、こりゃ確かに御幣ぐらいのがいないと処理もしきれなさそうだ。こんな街中で秘密裏に動くんじゃあ」 言って神和は今度は参ったと言いたげに息を吐く。大きく動いて構わない、たとえば人気の少ない、周囲に民家もないような場所でなら彼らもそれ相応の行動を取る事ができる。それが制限された中で極力秘密裏に、事を小さく治めるのは至難の業である。実際問題、今回のケースは既に小さく収まってはいない。怪我人が出て、警察までもが出張っている。それでも派手な動きを取れなかったのはここが住宅地で、相手が既に人に無害ではないこと、加えてその正体を正確に掴めなかったこと、が理由だろう。解ったところでどうなるというわけでもないが、神和は意地悪く、また笑って見せる。そしてどことなく、側らの植芝を揶揄う様に言った。 「あんたがとっとと出てってすっぱりやっちまえば、ここまでの騒ぎにはならなかったと思いますよ、俺は」 「そういうわけにも行かないだろう。私がここにきたのは、うちの人間が戻ったその後だったし、一つずつ全てのケースを私が見ている余裕もない。こんなことになるなら、とは思ったが」 「部下を信用してる、とか、そういう所ですか。だったら心配もしてやった方がいいんじゃないんスか?」 「心しておくよ。誰もが『布都主』ではないことは」 笑いもせず、冗談めいた口ぶりでもなく植芝が言う。何だそりゃ、それじゃ俺が全然御幣の心配をしていないとでも言うのか、と、体質故に勘も鋭い神和は、僅かに眉を顰める。植芝は水鏡を眺めて、そんな彼に構わず更に言った。 「後はこちらで何とかしたいが……事が大きくなっている。出来るだけ早いうちに片付けたい。出来れば、審神者の見解からの指示を仰ぎたいんだが」 言葉の後、植芝は顔を上げる。神和は自分に向き直ったその顔を見て、またどこか意地悪く笑った。悪い気分ではない。これで貸しが作れる。もっとも、植芝という男はそれを貸借関係と考えたり、考えたとしても表だってそれを顕にする事も少ない質なので、貸しを作ったところで少々肩透かしなのだが、それを差し引いても、悪くない気分だ。 「松浦と御幣が張り付いてます。任せればいいでしょう……核になってるのは人間だが、相手はもう食われて死んでる……これ以上死にゃしない。事がすんだらこの辺の清めと地鎮でもしてください。あいつはこっちで適当にします。後始末は、よろしく」 言って彼はその場で何やら唱え始める。植芝は残像の残った水鏡を眺めながら、吐息とも苦笑ともつかないものを漏らした。やや遠巻きに二人の姿を見ていた対処係の人間が、改めて支持を受けるために植芝の元にかけてくる。そちらに気付いて、振り返ると彼は言った。 「目標物の処理はあちらに任せる。終ったらすぐにも場を清める。明日の朝にもこの辺りの地鎮をすればいいだろう」 「係長……うちが『地鎮』ですか?」 駆けて来た内の一人がそんな風に声を上げる。大きな穢れがその場に残る場合、後処理として場を清め、事と次第によっては「地鎮」と呼ばれる処理を彼らが行うのが常ではあるが、その声に植芝も僅かに驚き、そして直後苦笑した。自分達の本来の業務は「対処」この事象を直接処理することのはずなのだが、と。 「まぁ、たまにはこんなこともあるだろう。今回はどう足掻いてもあちらの方が処理に適任だ。何しろ国内最高の審神者と、最強の戦闘巫覡がいる」 人間性どうこうはさておき、あの二人が地鎮係に所属していることは、惜しいことかもしれない。その能力があればこちらとしても仕事がはかどって大いに助かるし、巫覡課としても業務成績は上がるだろう。もっとも、それは当人達が望んで快く働いてくれればの話だが。植芝は苦い笑みを禁じえない。その二人が揃って組織の問題児で、団体行動が苦手な上、誰もがどれほどに研鑽しても得られない程の能力を持つ巫覡、とは。 「どうしてあの二人……うちじゃなくて地鎮係なんです?係長」 部下の一人が植芝に問いかける。苦笑いを浮かべたまま、 「恐らく、私が御しきれる巫覡ではないから、だろう。上も、あの二人を目立つところに置く事は避けている。どちらにしても、どこの宗教団体も咽喉から手が出るほどの巫覡だからな」 黒い影の中には確かに人の死骸と思しき何かが、ぼんやりと浮かんでいる。一瞥して、植芝はそこから歩き出した。 中空に、三枚の紙片がくるくると旋回していた。わあ、オカルトだ、と何気に御幣は呟き、その下らなさに自身がげんなりする。紙片は、符と呼ばれるものだ。ちょうど三角形を作るようにして、彼らの目標物である九十九神を囲み、その場所にそれを留めているらしい。結界、と言うにはそれは力なく、しかしそこでは充分その力を発揮していた。目標物は移動を制限され、時折耳につく声を上げたが、特に疲弊している風でも、弱っている様子もない。指示があるまでは極力、刺激する事も避けたい。それは松浦の言い分だった。目標物は、というと、夜が更けるにつれ、そのエネルギーを増幅しているらしい。状況に応じて微調整の効くそれは、その変化にも都合よく対応していた。と言っても、全て松浦の駆使する技のお蔭、なのだが。お札が三枚って、何が理由だったっけ。目の前のオカルトを眺めながら、何気に御幣は考える。諸説紛々あるけど、確か誰かが「一人だと三枚程度しか制御できないから」とか言ってたっけ。そんな風に思いをめぐらせる御幣に一切構わず、松浦は今も小さな声で神咒を続けていた。額に脂汗が浮き、時折、その眉間が酷く顰められる。指示を待つのはいいけど、その指示が早く来ないとまずそうだなぁ、と御幣はいつものようにややのんきに思いながら、そんな彼女に声を投げた。 「松浦……変わろうか?」 ちらりと、松浦の視線が動く。次の瞬間、彼女は何処からともなく一枚の紙人形を取り出し、それを斜め前方に向かって投げた。ひときわ大きく、神咒が唱えられる。 「ふるべゆらゆらとふるべ」 一瞬、周囲の空気が歪むような錯覚が起こる。何だろう、と御幣は目をこすりながらそちらを見た。投げられた紙人形は他の札同様中空にとどまり、他の物のように旋回することなく、ぴたりとその場に固定された。大きく、松浦が息を吐く。やや疲れた顔で、しかし彼女はこう言った。 「大丈夫だ。神和からの指示は?」 「まだだよ。何してるんだか」 御幣のストレートな答えに、松浦は大きく溜め息を吐く。明らかにそこには疲労の色が浮かんでいた。見て、御幣は苦笑をもらす。そして今一度、投げられたまま中空に止まっている紙人形へとその視線を向けた。 「あれ、何?」 「私の代理だ。少しの間ならあれに任せられる」 「へぇ、便利だね」 律儀に質問に答える松浦を見遣り、御幣は僅かに苦笑をもらす。そして、 「がんばるね……毎度のことだけど」 「これで給料を貰っている身分だから。やれることを精一杯やってるだけだ」 「辰耶もそういうヤツならいいんだけど」 「全く、その通りだな」 御幣の言葉に、微かに松浦が笑みをこぼす。今一度御幣は目の前のものを見て、それから、再び言葉を紡いだ。 「松浦、辰耶のこと嫌いじゃないでしょ?」 松浦は一瞬きょとんとした表情になる。そして、それから自分の投げた人形を見遣り、溜め息と共にこう答えた。 「嫌いじゃない。確かに。妬ましいけれど」 「妬ましい、ねぇ…それってどういう風に?」 同じ様に、御幣もその人型へと目を向ける。一体あれはどのくらいの間、ああして彼女の代わりをしていられるのだろう。何気に思う彼に、同じ事を思案している様子のまま、松浦は言葉を紡ぐ。 「色々と、妬ましいことこの上ない」 「素直じゃないなぁ……毎度のことながら」 「正直に言って、あの能力は魅力的だ。同業者なら誰でも咽喉から手が出るほどに欲しいだろう。お前の、その「神殺し」の力も」 くすくすと笑い出していた御幣は、その言葉に目を丸くさせ、彼女へと振り返る。松浦は変わらずに人形を眺めて、笑いもせず更に言った。 「神和の感応能力も、お前の破壊の力も、誰がどう望んだところで手に入れられるものでもない。私も、修練を欠かそうとは思わないし、それなりに能力に磨きをかけたいとは思っている。けれどそこにまで到達する事は叶わないだろう」 「あ、そういうもんなの?やっぱり」 「異能と言って差し支えないな。それでいてそろって分署だ。上の気が知れないと思っている巫覡も大勢いる。当人の人となりを知れば、その辺りの考えも改められるだろうが」 言ってようやく、松浦は御幣へと振り返る。御幣は目を丸くさせ、それから、少し困ったように視線を逃がした。 「なんか……そこまで言われると、複雑だなぁ」 「非難している訳じゃない。事実だ。二人とも、その力は誇って構わないと思う」 「それって僕らのタチが悪いって、そういうことでしょ?」 むぅ、と小さく唸って御幣が眉根を寄せる。松浦はかすかに笑みを漏らし、 「それはある、確かに」 「じゃ、やっぱり褒められてないじゃない」 すぐさま、御幣はそんな彼女に反論した。松浦は笑いながら、 「そうだな、そうかも知れない。それでも、妬ましいことには変わらない。御幣の能力も、神和の能力も」 「じゃあさ、そこんとこも踏まえて、どう思ってるわけ?彼のこと」 問いは、改めて御幣から投げられる。不意打ちを食らったかのように松浦はぱちぱちと瞬きして、それから、軽く肩をすくめていたずらっぽく笑って見せた。 「祖母が、いたく気に入ってはいる。婿にはああいう男がいいそうだ」 「おばあちゃんが?」 その言葉に、御幣がまた目を丸くさせる。少し困ったように、松浦は返す。 「あの人は面食いだから、余計に」 「それで……松浦はどうなの?」 「男は顔だけじゃない。百歩譲ってあちらが私を好意的に見ていたとしても、それ以前に、神和には婿養子になる気なんてさらさらないだろうし」 しれっとした顔で言ってのけて、それから彼女はくすくすと笑った。二秒ほど御幣はそこで思案して、それから、苦笑交じりにもう一度言った。 「本当に、素直じゃないなぁ……毎度のことながら」 そうか、と言いながら、彼女はずっと笑い続けていた。御幣はその表情をちらりと見て、今一度、仕事の対照物を眺めやった。 「松浦、この後仕事の予定、どうなってる?」 「明後日から本殿にしばらく籠もる。終わったら京都へ研修に……それが?」 ふーむ、と鼻で御幣は息を吐いた。首を傾げ、そんな彼を松浦は不思議そうに見ている。 「いや、辰耶くんもちょっとくらい報われないとなぁと思って。誘われたらご飯くらい一緒に食べてあげてよ」 「考えておこう……奢りなら」 くすくすと、友人同士の会話に松浦は笑っている。御幣はその一言で表情を変え、 「あ、だったら僕も奢られたいな。でも神和くんけちだからなー……」 「全くだ、たかり甲斐がない」 「でも松浦がおねだりしたら、いいもの食べさせてくれるんじゃないの?」 「遠慮しておく。後が怖い」 「そうかなぁ……案外気が小さいから、別に何もないと思うけど……」 あはははは、と、松浦の言葉に御幣が笑う。声は、その時御幣の耳を直撃した。 「余裕綽々で笑ってるとこ申し訳ないんだが」 あれ、と思いながら彼は松浦を見やる。松浦は軽く口元だけで笑い、目で何かを答えた。そこには声しかない。遠くからそれだけをそこに飛ばしているらしい。彼らの言う「言魂」だ。声と共に、意識をその場に投げる、感応能力に優れた巫覡だけが使う事のできる術である。 「何、やっと指示?で、もうこいつに手出ししていいの?それとも勝手に壊れるの?」 ようやく来たよと言わんばかりに、その声に対して御幣が問いかけた。形態はどうあれ発している人間は変わらない。バカ言え、と声は音だけで毒突き、そのまま続けた。 「いいかよく聞け。術者はもう死んでる。そいつを作った時に食われたらしい」 「作った時に?」 「うわー……バカだね、そいつ」 いぶかしげに眉を顰る松浦に対し、御幣はマイペースに言い放つ。問題はこれからだ、と神和は言葉を続けた。 「術者の死体がその中で核になってる。御幣、そいつだけひきずり出せ」 「へ?ひきずり出す?どうやって?」 首を傾げ、やはりのんきに御幣は言った。その、当然のような質問に、神和の声だけが、いらだたしげに答える。 「そんななぁ自分で考えろ。お前ならそいつに二、三発殴られたって壊れやしねぇ。心配すんな」 「何それ、どういう意味だよ?失敬だな」 「とにかくさっさとやれ!後の始末は対処係に頼んだ。そいつさえ分解できたら終わりだ」 言葉に、御幣はひたすら眉をしかめていた。傍ら、ややもすると呆れの表情で松浦がふてくされる彼を見ている。 「とにかくやれって……そういう言い方しないでくれる?大体神和くんはいつもそうやって責任逃れみたいに言って」 「今そういうことを言ってる場合か!いいか、とにかく殺すな、で、ばらばらにしろ」 「だから、やり方がわかんないって言ってるんだろ?粉砕するだけならすぐできるけど?」 「バカヤロー、百ものたたり神が出てみろ!辺り一帯滅びるだけじゃすまないんだぞ!」 「だったらどうすればいいんだよ!」 「一体ずつほどけ!夜明けまでに!」 「そんな余裕はなさげだぞ」 姿の見えない声の主と言い争う御幣の傍ら、松浦は今一度、自分が封じていたモノの方へと向き直って言った。振り返り、御幣は眉をしかめる。それはその場所でもがきながら、先程よりも大きく低く、耳につく声を放ち始めていた。今にもそこから飛び出して、二人に襲いかかりそうな勢いである。 「もう少し強く縛っておく。少し離れてくれ」 「って、松浦?」 御幣が振り向いたとき、松浦は既に行動していた。結界に向き直り、その手を軽くひらめかせる。彼女の代わりをしていた紙人形は一瞬にしてその中空で焼け落ち、ぱらぱらと白い灰がちに落ちていった。その一瞬だけ、九十九神は膨張する。が、 「太刀の下、その身を伏せよ、連ならざる者」 静かではあるが力強いその声の後、膨張した以前より更に小さくなり、その場でそれはその動きを止めた。とは言え、その表面は波打つようにうごめき、今にもその皮さえ破って、暴れだしそうな様子である。御幣は目を丸くさせ、しばたたかせる。毎度の事ながら器用だな、と感心しながら、そんな事考えてる場合でもないんだろうけどな、と、のんきな自分に飽きれる。どうやってその様子を知っているのか、いらだたしげな神和の声だけが、再び彼の耳を打った。 「鼎、いい加減にしろ!お前がさっさとやらないと……」 「解ってるよ、そんな事。ただ、どうしたもんかなってちょっと考えてるんだよ」 「そんな悠長な事言っとる場合か!手ェ突っ込んで一匹ずつ引っこ抜きゃいいんだよ!」 「あのねぇ、神和くん、自分がやらないからってそーゆー無茶を言わないでくれるかな。それとも、僕が不用意にそういうことして、あれが全滅してもいいって言うの?」 「いや、それは困る!」 とにかく力いっぱい、神和が主張している。人のこと本当に考えてないよなあと、またのんきに御幣は思った。そして、まあ彼はそういうヤツだから、と、直後これまたのんきに思い直す。側らでは、松浦がじりじりと交代しながら、九十九神を縛る結界を維持し続けていた。消耗しているらしく、力は中から押され気味だ。あれが弾けたりしたら、どうなるんだろ。中のアレが暴れだすのもそうだけど、松浦もただじゃすまないかな。胸の中、御幣は呟く。そして、ふむ、と鼻で息をつき、何気ない様子で虚空に声を投げる。 「神和くん……僕って本当にやればできるタイプ?」 「は?急に何言ってんだ?お前」 声は、その音だけでその主の顔つきを容易に想像させた。御幣は利き手の左手を握ったり広げたりしながら、またその声に向かって言った。 「だって今さっき君が言ったんじゃない。やればできる、って。でも基本的にやってできることって少ないから、どうなのかな、って……」 びしびしびしっ、と、まるでコンクリートの壁に亀裂でも入るような音がした。かと思った次の瞬間、うねるロープ状のものが御幣めがけて飛んでくる。軽くよけたつもりが、それに頬をしたたかうたれて、彼はその場で眉を顰めた。結界が破られかけている。叩かれた頬の痛みを思いながら、御幣は言った。 「松浦……ちょっと下がってくれる?」 言って、御幣は軽くその手を握る。このままでは、彼女の力もろとも吹き飛ばして、あれは暴走を始めるだろう。黄昏が過ぎて、次にあれが待っているのは丑三つだろうか。夜陰が濃く深くなればなるほど、カミなるものはその存在を濃くさせる。そうなったら、事を小さく収めるどころの話ではすまなくなる。松浦は変わらず、壊れかけた結界を維持しようと躍起になっていた。そんな彼女に向かって、強く御幣が言い放つ。 「松浦、下がって!」 「しかし、御幣!」 「いいから下がる!この貸しは高いからね、覚えとけよ、辰耶」 松浦が振り返るのを見ず、彼はその声に怒気を孕ませて声を放った。松浦が振り返って彼を見る。怒りのこもったような視線は、じっと目の前の九十九神を捉えていた。かすかに、その様子に彼女は息を飲む。そして、それでも何とかその結界を維持しながら、そんな御幣に問いかける。 「御幣、何を……」 答えは、ない。その手を、御幣が目の前で凪いだ。ばりっ、という音とともに、もがいていたものの束縛が完全に解ける。それは自由になった途端に、その体ごと御幣めがけて突進する。全身の力が抜けた感覚に、松浦は驚く。自分は何もしていないはずだと言うのに、その結界は既にそこになかった。それさえも、神殺しの能力なのかと、驚かずにはいられない。が、そんなことに驚いている余裕は無かった。九十九神は勢いのまま、御幣目掛けて突進する。 「御幣、やめろ!」 松浦が思わず叫ぶ。完全にそれを無視して、彼は地を蹴って向かってくるものに突っ込んだ。 「このぉっ……」 がばりと、九十九神がその口を大きく開く。人一人くらいならたやすく飲み込めそうなその穴に向かって、御幣が身を投げるようにしながら腕を突き出す。耳をつんざく爆音が起こったのはその時だった。一瞬青い光が周囲を焼き、地面が震撼し、その表面さえも衝撃で波打つ。松浦はとっさに顔を伏せ、本能的に自分の身を守ろうとしながらも、その一部始終に目を釘付けにされた。一瞬、だ。九十九神はその場で硬直し、次の瞬間ごそりという音を立て、渇き切った土の塊が弾けるように、その場で爆散する。 「……面倒くさいなぁ、もう!」 もう一声叫んで、御幣は突き出した腕を強く引き抜く。宙で崩れる直前の土くれの中から何か別の塊が姿を現し、爆散した破片は地に落ちることなく、一瞬その場に浮遊し、やがてどこへともなく飛散していく。唖然として、松浦はその光景を眺めていた。いや、息さえできず、ただ見ているしかなかった。いまいましげに口元を歪め、御幣はそこに残ったものを見、すぐにそれから手を離す。どさりと音を立て、それは真下に落下した。黒い土くれのようなものが、その核となっていたものだ。御幣はそれに一瞥をくれると、顰められていた眉をますます顰め、疲れたように言葉を投げた。 「……辰耶、言われた通りにばらけたはずだよ。見えてる?」 やりゃできるじゃねぇか、と聞こえた声はすでに肉声だった。そのままの顔で御幣と松浦が振り返ると、黒ずくめの男はにやついた笑みを口元に浮かべ、二人の後ろに立っていた。神和はそのまま松浦のそばを通り過ぎ、御幣のそばまで歩み寄る。そして、 「しっかし、派手にやったもんだな。他の気配も殆ど、この辺りから退散したぞ」 「た……退散?」 僅かに上ずった声で言ったのは松浦だった。その声に、初めて彼女の存在に気付いたように神和は振り返り、肩を軽くすくめて言った。 「心配ない、そのうち元の住処に戻るさ。アフターケアも対処係に任せたし、こいつも、一匹も殺してないしな」 「ようやくお出まし?何やってたのさ?」 憤りに任せるようにして御幣が言う。ニヤニヤと笑いながら、神和は無言でそんな彼を見た。不満たっぷりの様子で、御幣はそんな神和に詰め寄る。 「言っとくけど、すんごい難しかったんだからね!この僕に頭とか小技使わせて、タダで済むと思ってんの?」 足元の黒い塊を怒りに任せて蹴飛ばしながら、御幣が言った。見て、神和は軽く手を上げると、 「おぅ、ご苦労さん。今日は疲れただろ。明日は有給扱いでいいぞ」 「って、そういうことしか君は言えないわけ?もっと褒めるとか、ご褒美になんか奢ってくれるとかさあ!」 「バカヤロー、オレ様はどこぞのボンボンと違ってビンボーサマなんだよ。そんな銭はねぇ」 「何言ってんのさ!って言うかそれとこれとは話が別だろ!」 そのまま、何度目かの、いつもの痴話喧嘩が始まる。と言ってもどちらかというと、この場合は御幣が、疲れと苛立ちに神和に当り散らしている、という風情ではあったが。 「いい?この貸しは高いからね!絶対負けてやんないからね!いつか払わせるから、覚悟しろよ!」 「あー、わかったわかった、わかったからちったぁ大人しくしろ、お前は本当に体力だけは人並み以上ッつーか、化け物並みなんだから」 「あ、そういうこと言うんだ?神和くんは。人がせっかく一生懸命働いたって言うのに。じゃあしおらしく君に抱きかかえでもしてもらった方がいいって言うの?」 「お前なんか抱きかかえて何が楽しいんだ、やめてくれ。まだ松浦の方がよっぽど……」 言って、神和は今一度松浦へと振り返る。目を丸くさせ、やや唖然として二人のやり取りを見ていた彼女は、自分のほうを向いてにやりと笑った彼を見ると、何気に言った。 「よっぽどまし、か。成程」 そしてそのまま、普段より疲れた足取りではあるが、確かな歩みでその場を去ろうとする。神和は一瞬その様子を見送るが、次の御幣の言葉に、我に返る。 「あーあ、松浦、怒っちゃった。そりゃそうだよねぇ、よっぽどましって、それはないよねぇ。仮にも女の子に」 「松浦、待て、今のは誤解だ。よっぽどってのはだな……」 言いつくろいながら、神和は彼女の後を追う。見送って、御幣はその場でかすかに笑みを漏らす。そして、 「んじゃ、帰ろうかなぁ。で、明日は有給にしてもらお。ってゆーか、一応出勤になるかなぁ?本殿でお清めしなきゃいけないし。あ、そーだ、今度新しくできたチャイニーズレストランのテイクアウトでマンゴープリンでも買ってこ。五十鈴喜ぶかなぁ?ねぇ神和くん、どう思う?」 独り言のように言ってから、御幣もきびすを返して神和の後を追う。入れ替わるように、辺りはばたばたと慌しくなった。対処係の面々が黄色い立ち入り禁止テープの境界を張り、更にその中に注連縄を張り始める。入れ違いにやってきた対処係長、植芝は、歩き去る三人を見送りながら苦い笑みを漏らした。三人は、というより、神和と御幣は、普段とまるで変わらない会話を交わしながら、その場から遠ざかっていく。 「……というわけで、何とかあの場所はおさまったわけ」 後日、全ての処理が終わったとの連絡が、事務所の二人の元に届く。事件は奇妙な宗教にこって麻薬に走った一青年が、トリップの末に起こした惨事、として二日ほど世間を騒がせたが、すぐさま鳴りを潜め、モグリの霊能力者が九十九神を作り上げてとりこまれたという事実は、一切が闇に葬られた。それを報告したその人物が、詳しいことが聞きたいんだが、と訪ねると、御幣鼎はその客人にコーヒーを勧めながら、世間話でもするように一連の全てを語ったのであった。 「でも、やってみてできるもんだよね、色々とさ。僕も今回は勉強になっちゃったよ。それであの後、あの辺のカミサマたち、みんなちゃんと戻って来たんでしょ?」 客人、もとい、地鎮係長誉田八郎は、機嫌よく話す普段どおりの御幣の様子を見ながら、重く深い溜め息をついた。そして、その質問に、重々しい口調で答えた。 「確かにそうだな。あの後あの辺り一体は元に戻った。元以上の環境になった、と言った方がいいかも知れん。対処係の地鎮のお蔭で浄化されて、それまでの穢れの一切があの場でなくなったわけだからな。それに、一時は退避していた地霊も、ことが済んだ後には元の場所に戻ったし。無傷、というわけにはいかなかったが、環境にもさほど問題も発生しなかった。よくやった方だ」 「でしょ?って、その割に係長、機嫌悪いよね。もっと手放しで褒めてくれてもいいと思うけど……」 のんきな御幣の、子供じみてさえいる言葉に、誉田は再び大きな溜め息をつく。ことが丸く収まったならこれ以上のこともないだろうに、何か別の心配事でもあるのかな。思って、御幣は小首をかしげる。 「……誉田さん?」 「神和は?姿がちっとも見えないが」 問いかけるような御幣の呼びかけに応えず、逆に誉田はそう返した。目をぱちくりさせ、 「ああ、神和くん?今日は有給、とか言ってたよ。って言うか、実はさー……」 あはははは、と、素で、特別何も考えていない様子で御幣は言葉を紡ごうとする。さえぎるように、誉田は言った。 「とりあえず、丸く収まりはしたがな。お前らがやった無茶苦茶で周りの神社にまで影響が出て、業務部長からもお小言だ」 笑顔のまま、御幣はそこで凍りつく。額に血管を浮かび上がらせて、本田は極力静かに言葉を続けた。 「祭祀を控えていた事もあって、周辺の霊波動が多少なりともぴりぴりしてたところにあれだ。ついでに、うちの宮にまで変な影響が出た。狭庭のいろいろも、あれから暫く落ち着かなかったとかで、何をしたのか聞いて来いと、本殿祭礼係長からも厳しく言われた」 「あ、稲生さんから?そう言えば僕がお清めに行った時、運良くあの人いなかった……」 「後始末の一切合切を対処係に任せて自分たちは事後連絡の一つもろくにしないで帰った、とも聞いた」 「あれ?何、神和くんその辺、何のフォローもしてくれなかったわけ?自分が一番体力残ってたのに……」 「松浦が一応、後から報告に行ったそうだから、あちらもそんなに何も含んではいなかったが」 言葉を、誉田が区切る。そこまで見ていなくとも、御幣にもわかっていた。今日の彼は機嫌が悪い。悪いどころではない。大きく、色々の感情がない混ぜであろう溜め息を、誉田が吐き出す。御幣は笑顔を作って、それに対峙しようとした。当たられるのは目に見えている。しかしこれ以上彼を刺激するのも、考え物だった。 「八郎さん?」 「それで俺が植芝係長にいじめられるのか」 暗い顔で思い溜め息を吐くと、二人の直属の上司は低い声で、まるで独り言のように言葉を紡ぎ出す。 「お前のところには優秀なのが二人もいていいなぁ、とか、口の聞き方さえ良ければうちにひっぱりたいなぁだとか、ついでに、部長と懇意だからと言っても所詮はヒラなのに、態度が大きすぎやしないかとか、なんでそんなことを俺が聞かされなきゃならんのだ!」 しかし言葉の最後、その声は吠えんばかりのものに変わっていた。御幣、うわー、キてるよ今日は、と内心呟きながら、 「まあまあ……度量が小さい人じゃない?植芝係長なんて。八郎さんも、そんなことで怒らないで」 「それにだ!今回は何とかたたり神も出さずにすんだが、お前らのせいで業務部長からお小言だぞ!お小言!この俺が!下手すりゃ訓告だぞ!俺が何をしたって言うんだ!言ってる事がわかるか!鼎!辰耶!」 あーあー、こりゃ完璧に怒ってるよ。御幣は、叫ぶ上司を目の前に、もう作り笑いをしているしかなかった。そのまましばらく、お小言にしては大仰すぎ、説教にしては私情のからみすぎた誉田の叫びが続く。 「おい鼎、辰耶はどうした?」 「え?辰耶くん?だから、今日は休みで……」 あはは、あはは、と、死に物狂いで笑って、御幣はひとまずその場を誤魔化そうとする。 木々の隙間から日差しがこぼれる。踊っているようなそれを見ながら、小鳥のさえずりを聞きながら、神和はしかし、ややもすると浮き足立っていた。そこは本殿の狭庭の、その入り口である。大鳥居をくぐって本殿までの道のりは、短くも長い。そして目当ての人間がその道をたどるか、確かとは言えない。が、今日ここで張っていれば恐らく、という思いが彼にはあった。彼女は真面目だ。だからまずここを通る。仕事の前にも、後にも。そして時には気まぐれに。こんなところをうろつく暇があるのなら、もっと気まぐれに自分と付き合って欲しいものだが、どうにも好かれている気配がない。その辺りは残念だが、と毎度のように神和は思い、しかし、そう簡単に落とせないからこその彼女だとも、彼は思っていた。自分が見込んだ女は、そんなに簡単じゃない。それさえ、何やら誇りのようにさえ思える。 「神和?」 声が、不意に耳に届く。待ってましたとばかりに彼は顔を上げた。そして、思い描いていた相手の姿に、軽く手を上げる。 「よ、松浦」 「……本殿に行くのか?」 現れた声の主、松浦千五穂は僅かの間の後、そこにいる男にそう問い返した。神和、ややもすると鼻息も荒い様子で、玉砂利を早足に踏みしめ、そんな彼女に歩み寄る。 「今日は有給だ。そっちは?」 「……いつかの振り替え休日、だが」 何か胡散臭いものでも見るように、じろりと松浦は歩み寄る男を見遣る。おどけた様子で神和、 「何だよ、そんな顔すんなよ。で?松浦、本殿には行かなきゃならないのか?」 「いや……特別な用でもないが」 よっしゃぁ、と、小声で言いながら神和はその場でさっと振り返り、彼女に背を向けると小さくガッツポーズをした。更に松浦の表情は怪訝さを増し、ほぼ不審者を見る目つきとなったところで、神和は改めてそちらに向き直り、にやりと笑って見せた。 「うちの事務所の近くに美味い中華屋ができたんだ。どうだ?メシでも……」 「ああ、デザートが結構美味しかった」 行かないか、の直前、先んじて松浦が言う。途端に、意気洋々だった神和の表情がそこで固まり、次の瞬間、 「何ぃ!松浦、もう行ったのか?あの店!」 衝撃の余りに驚きを隠せない間抜けな声音で、神和が叫ぶ。松浦は目をしばたたかせ、 「この前御幣とここで一緒になった時、奴にもらった」 「……は?」 否とか応とか、そういった答えを待つでもなく待っていた神和は、その言葉に目を丸くさせる。松浦は何をころころ顔を変えているんだ、と言わんばかりの顔つきで、さらりと言葉を続けた。 「この間の一件の後、ここで穢れ祓いをした時一緒になって、その時だ。何だか色々買い込んできて、本殿中の巫女たちに配っていたから、その御相伴に預かった」 その答えに、神和は何気に固まっていた。何だこの男は、と、顔中で言って、松浦はそんな彼を眺めていた。が、ややもすると、微かにその口元に笑みを浮かべ、 「余り中華は得意じゃないが」 「……え?」 「そちらの財布にも事情というのがあるんだろう?審神者の身で、煙草を吸うのは戴けないが」 「え?え?え?」 「支度をしてくる。そこで待っていろ」 くるりと、松浦はきびすを返した。何やら事態は都合が良すぎるほど、いい方向に転がっていく気配である。軽やかな足取りで元来た道を戻る彼女を僅かに見送って、我に返った神和は、 「ちょっと待て松浦!……ホテル、ホテルの予約がしてない!それにっ……」 「何をばかげた事を言ってる。昼食だろう?遠出するわけでもないのに、宿の予約をする必要なんかない」 「いやでもあのっ……俺にも心の準備がっ」 「外食の度にそんなものがいるのか?呆れた男だな。それとも、私の勘違いか」 立ち止まって、松浦は置いてけぼりの男をちらりと見やる。意地の悪い、しかしいたずらな、そして滅多と見られないその表情に、神和は釘付けになり、直後、 「や…いや!全然勘違いじゃない。全くその通りだ。けどその……」 「私としても、その程度で借りが返せたなら、気が楽だ」 「……はい?」 くすくすと、言葉の後松浦は笑い、そして再びその場から歩き出す。何を言われたのか一瞬わからなかった神和は、またその場で固まり、やや間を置いて、 「……ま、そうだな、そんなんだよな、松浦って女は……」 言ってその場で苦笑をもらす。そして、 「じゃーまー、飛び切りの美人になって来いよ、千五穂」 「何もしなくても綺麗な男には余り言われたくない。無駄な気がするから」 投げた声に返された辛らつな言葉に、神和は肩をすくめた。そして何気に、いつもの問いを投げてみる。 「松浦、お前って俺のこと、嫌いなわけ?」 「さて、どうだろう」 しれっとした顔で松浦は言った。その答えにも、神和は苦笑する他に術はなかった。 さて一方、事務所では。 「辰耶はどこだ。有給だと?この期に及んでまだ真っ当に休む気か。鼎、探してこい!今すぐにだ!」 「あーでも、でもさぁ?顔見たら余計に腹立つよ?愚痴なら僕が聞くからさ、ね?」 「やかましい!早く引っ張って来い!」 「まあその気持ちはわかるよ、わかるけど、彼にだって色々あるわけだし、僕だって彼のこと全部が全部把握してないしさ」 そんな具合に、誉田の怒りも収まらず、御幣も手を焼くに相応しい対応を強いられていた。何とか話題を多少なりともそらそうと、色々言っては見るものの、 「あ、ねえ八郎さん。先月近くに美味しい中華の店ができたんだ。この前そこでデザート買って本殿に持ってったら、結構うけてさ、どう?今日のお昼にでも」 「メシのことなんかどうでもいい!辰耶を探せ!ここにつれて来い!」 取り付く島もない。神和め、この場にいないとは、なんてラッキーな男だ。御幣は腹の奥でそんなことを思い、それが逆恨みになると思いもせず、御幣は一人誉田の、矢のような説教の犠牲になりながら、胸中で呪うように呟いた。あのすっとこ野郎、貸しに上乗せしてやる。 「大体お前らはいつもいつも……鼎、聞いてるか!」 「あー、はいはい。聞いてます、聞いてますよ係長。あ、コーヒーが冷めちゃったなぁ。新しいの淹れ直そうか、ねぇ?」 「コーヒーなんぞどうだっていい!今日という今日は俺も腹に据えかねた!お前ら二人の面倒見始めて、俺がどんなに苦労してきたか、わかってるのか!」 あーもー、誰か何とかしてくれ。心の中、御幣はどこへとも無く救いを求めるように呟いた。その日暫く、宗教事相談事務所からは男のわめく声が絶えなかった。周囲住民及び雑居ビルの管理者から注意通告を事務所長、神和辰耶が受けるのは、また後日の事である。 終 |
Last updated: 2005/07/09