若い頃は実は教師になりたかったんだ、とその男は言った。それが一体どういう巡り会わせでそうなったのかは、余り話したがらない。ガトル・スライサー。階級は大尉、役職は中隊長、だが、その職務の殆どは兼任の小隊の指揮に宛てられている。そのスライサーがきっかけでマチルダに読書の趣味がある、とマデリンが知ったのは、ある休日の午後のことだった。
「マチルダー、ヒマしてるならドライヴでも行こうよー」
宿舎の狭い部屋に乗り込んだマデリンが提案する、が、当の家主はそちらを全く見ず、ベッドに座って何やら読みふけっている様子だった。赤いふちの眼鏡の横顔に、マデリンは目を丸くさせる。
「あ?何だ、いたのか」
感嘆の声にマチルダは顔を上げた。マデリンはそっとベットに歩み寄り、マチルダの隣にためらいなく腰掛けた。スプリングの余り利いていないベッドが、それでもかすかにきしむ。
「マチルダ、眼鏡なんてかけるんだぁ……」
マチルダは、そう言いながら近くにやってきたマデリンを殆ど無視して言った。
「たまにな。そんなに悪くないけど」
「ドゥーローの医療センターで治してもらえば?あそこならタダで手術してくれるし」
「マシンに乗るのには平気だから、そこまでする必要ない」
マチルダは再び本に目を落とす。マデリンはそれを覗き込み、そして、
「古典文学なんて読むんだ……意外……」
それがラステルでは名著で、しかも難解な内容だと知っている大人は沢山いるが、十二歳の子供が雁首そろえて覗き込むような代物ではない。が、マデリンはその年齢でそれ以上の学力と知識を備えている。周りの大人にしてみると、時折扱いづらい部分もあった。とは言え、上司が「豪快、磊落」の代名詞のような男なので、彼女もどこへ言っても結局子供扱いだったが。本人は多少なりとも不服なのだが、どうがんばっても十二歳より大人にはなれないのだ、致し方ないことではある。一方のマチルダはというと、義務教育もろくに受けていないのだが、ミッシュ・マッシュでは「神童」とさえ呼ばれていた。それは彼女のパイロットとしての技量だけではなく、その人間性の総てにおいて言われていることだった。十二歳にしては、余りに大人びすぎている二人は、しばし揃って本に目を落とす。
「……あたしこの文形、苦手だったのよね……言い回しがややこしくて……」
文章をたどってマデリンが言う。マチルダは顔も上げず、
「ゆっくりよく読めば解るだろ。多少はしょってあるけど、まだ簡単な方だし」
そう言ってちらりとマデリンを見る。マデリンは自分を見たマチルダに気付き、
「……なぁに?」
「何って、お前のほうだろ?何か用か?」
本を閉じてマチルダが尋ねる。マデリンは困ったように笑うと、
「ああ、いいの。もしマチルダがヒマしてたら、ドライヴでもしたいなーって思って」
「軍用地だって無免許運転はご法度だぞ」
「えー、って、今更言うこと?あたし達、マシンにだって乗ってるのに、車くらい何よ」
「お前この頃隊長に言うこと似てきたな」
さくっと鋭く一言言ってマチルダは息をつく。マデリンはその一言にショックを受け、
「やーん、うそ!それってどういうこと?」
「そういうこと。用が無いなら帰れよ。これ、休みの間に終らせたいんだ」
膝の上の本を見下ろしてマチルダが言う。ショックから抜けきらぬ表情でマデリンはしおしおとしおれ、
「はぁーい……つまんないの」
「お前も天狗になってないで、学校でやった事とか、ちったぁ復習しろよ。戦争が暇になったら大学に行けるようになるかも知れねぇし」
マチルダの口調はあくまで淡々としていた。マデリンはその言葉に目を丸くさせ、
「え、そうなの?マチルダ、大学に行きたいの?」
「俺は別に。本は借りて読んでもいいけど」
マチルダはそう言うと膝の上の本を再び開く。マデリンはそれを見て、
「ふぅーん……じゃあね」
もはや取り付く島もないと悟ったらしい。そう言うと、その部屋を後にした。
宿舎近くの通りをうろつく。マデリンはヒマであった。休みと言ってもお決まりの、週に一度の休日である。しかも殆ど実家から通勤している彼女にしてみれば、片付けなければならない特別な用もない。遊び相手のいない小学生と一緒よね、社会人でお給料も貰ってるのに。そう思いはするが、休みの度に確実に何か予定があるわけでもなく、遊び相手がいなければ家で大人しくしているか、誰かを見つけるかしかない。十二歳の子供にとって一日は長いのだ。寝て過ごす、なんてできるはずもない。頼みの綱のマチルダも今日は一日読書のようだし、日が暮れるまでどうしていようか、と思っていたその時だった。
「お、マデリンか。お前も今日休みなのか?」
太く低い声にマデリンは振り返る。買い物袋を抱えた大きな体躯のやもお、もとい知人を見つけたマデリンはその目を見開いた。
「スライサー大尉……大尉もお休み?何してるの?」
ガトル・スライサーはやもお、もとい独身である。結婚歴はない。機関構成員の中でも巨躯で知られる彼は、その実色々と細やかでもあった。トリオGで唯一神経性胃炎を患う男でもある。本人曰く「まじめでデリケート」なのだが、トリオG最年少の男に言わせて見れば「図体の割に胃が弱っちいだけ」らしい。さておき、スライサーは大きな袋を抱えて歩いていた。買い物の帰りらしい。何してるの、のマデリンの質問に、彼はごく普通に、知り合いの子供に会った時に浮かべる笑顔で答えた。
「今日は有給だ。消化しろって言われてて、ついでだから家事を片付けててな」
「大尉、結婚してないの?」
「残念ながら。最も、ここで既婚者、てのは殆どいないが」
「うちのパパは結婚して子供もいるけど、ミッシュ・マッシュにお勤めしてるわよ?」
「だからさ。宿舎は一人暮らし用だし、世帯を持てば外に家も持てるだろ」
ははは、とスライサーが笑う。ああ、そういうこと、と納得したように小さくマデリンは言った。そんなマデリンに今度はスライサーが質問する。
「そういう少尉は、自宅が基地の外にあるのに、こんなところで何を?」
「うーん……退屈だからマチルダと遊ぼうと思ったんだけど、マチルダ、本読んでて……」
子供らしい言葉でマデリンが答える。スライサーはそれをバカにするわけでもなく目を丸くさせ、
「ああ……ドゥーシェの全集か……あいつ本にかじりつくと余所向かないからなぁ」
そう言うと、どことなくその表情に精彩がなくなる。マデリンはその様子を見逃さず、再びスライサーに尋ねた。
「なぁに、大尉」
「いや……マチルダがろくに学校にも行ってない、って話は、聞いてるだろ?」
話しながら、スライサーは歩き出す。マデリンはそれについて歩きながら、続くスライサーの話に耳を傾けた。と言っても、大して長くはなかったが。
「あいつが一時期ドゥーローの医療センターにいた頃、ヒマだったら、と思って色々読ませてみたんだ。元々素養もあったみたいで、それ以来本の虫でな」
「へー、そうなんだぁ……」
「何つーか、今じゃ玄人はだしだよ、あいつの頭の中は。ここんとこ暇もないが、夜の寝る前の一、二時間で読めるモンもあるし、こつこつ読んでんのかもな」
感心しているマデリンの側ら、スライサーはやや困った顔つきである。マデリンは首をかしげて、
「本を読むのっていいことでしょ?大尉は、マチルダの読書に何か不服?」
「いや、不服じゃないさ。知識を身につけることは確かに悪いことじゃない。だが、出来たら俺はあいつを学校に行かせてやりたいんだ」
苦笑しながらスライサーが答える。マデリンはそれに更に尋ねた。
「でも今「マチルダは今じゃ玄人はだしだ」って言ったじゃない。そんな子が今更普通に学校に行っても、つまんないわよ」
言葉にはやけに実感がこもっている。スライサーはもう一度苦笑して、それから、
「確かに、お前さんにもマチルダにも、今更学校なんてつまらんだろうな。けどな、あそこは基礎学力をつけるためだけじゃなくて、もっと色んなことを勉強する場でもあるんだ」
「でも集団生活だったらもうしてるじゃない。職場の方が学校より社会性だって身につくわよ?」
ごもっともな意見である。が、スライサーはそれには答えず、こう言った。
「俺はあいつ……だけじゃないな。世の中の子供全員に、ごく当たり前の幸せな環境で生きてって欲しいんだよ」
マデリンの目が丸くなる。スライサーは苦笑のまま、言葉を続けた。
「マチルダは……戦災孤児で、乱戦期の真っ只中に無理やりミッシュ・マッシュに入れられちまってる。両親はその戦争でいないし、他に身内もいないんだ」
「でも……マチルダはそんなの、気にしてないわよ。大尉が思ってるみたいに不幸じゃないわ。だって隊長もカリナさんもいるじゃない」
「確かに……家族がいて、家があって、普通に暮らしてても、あいつより不幸な子供は沢山いるな」
マデリンのやや感情的な反論にスライサーは笑うのをやめ、しり込みした。マデリンは憤り、と言っても大して大きくないそれを隠さないまま、
「そりゃ、大尉は普通のおうちに生まれて、大学まで行ってて、マチルダみたいな境遇の子に会ったら、かわいそう、とか思うかもしれないけど、それって失礼よ。そういう態度でマチルダに接してるなら、改めてもらわなきゃ」
「……俺がそう、見えるか?」
この子は、十二歳とはいえ、流石に只者ではない、鋭いと言うか、言うことが子供ではない。思いながら恐る恐る、凡人である男が訪ねる。マデリンは罰が悪そうな顔になると、
「……そんなこと、ないと思うけど。でも、マチルダのことバカにしたり、可哀相って思わないで欲しいの」
「ああ……そういうことか」
どうやら今の科白は自己主張らしい。自分がマチルダに対してとっている態度はそうでないらしいが。思って軽くスライサーは安堵の息をつく。そしてまた、困ったようにかすかに笑った。
「なんつーか、なぁ……散々笑われたが……」
「何?大尉。どうかしたの?」
ごにょごにょと、スライサーが言葉を濁す。それが照れから来ていることに気付かないまま、マデリンは彼の言葉を待った。
「なんでか今はここにいるが……大学に行ってたのは、あれだ。教師になりたくて、な」
スライサーの言葉にマデリンは目を丸くさせる。子供相手にてれたまま、スライサーは更に続けた。
「何だ、まぁ……その夢は叶わなかったが……俺は俺の出来ることを、マチルダにしてやりたいんだ。本が読みたいって言えば貸してやって、何か知りたかったり勉強したいなら、その手助けを、って……ま、いらない世話だろうが」
図体の大きな男は柄にもなく照れている。マデリンはその照れに気付かず、どうしてかそこで嬉しそう、というより幸せそうに微笑んだ。そして、
「マチルダってやっぱり幸せだわ。隊長とカリナさんだけじゃなくって、大尉もいるんだもの。学校なんて行かなくても、最高の先生と一緒にいれば、何の問題もないわ」
「そう言われると、どういっていいのか、解らんが……」
天才少女は、天才でもまだまだ子供だ。思った事を包み隠さず、照れもせずに言ってのける。一本とられたな、とか思いながらスライサーは苦笑し、声もなくただ笑った。マデリンはご機嫌の様子で、
「でもマチルダが読書する、って言うのも意外だったけど、大尉が先生になりたかった、って言うのも驚いちゃった」
「……笑いたかったら笑っていいぞ。あのバカ二人なんか抱腹絶倒しやがったからな」
「やぁねぇ、大尉まであたしの隊長の事、一緒にするの?」
マデリンがスライサーの少し卑屈な物言いに眉をしかめる。勿論眉のしかめどころはそこではないのだが。
「ねぇ、大尉も本、読むんでしょ?」
「ん?まぁそうだな……読むな」(注・インテリなのでかなり読む)
「やっぱり眼鏡、かけたりするの?」
唐突な問いに、スライサーは首をかしげる。が、構わず、
「ああ……マシンに乗るのに困るほどじゃないが、そういう時はかけるな……」
「マチルダって、大尉の事、尊敬してるかも」
くすくすとマデリンが笑う。スライサーは首をかしげて、
「……そうか?そうは思えないが……」
マチルダの笑う理由が解らないまま、そんな風に言った。機嫌よさげに、マデリンはその場でくるくる身を翻す。どうやらご満悦らしい。まぁ、いいか。訳が解らないながらも、スライサーは自身の中でそう結果付け、それからマデリンに教えるように言った。
「少尉、少尉のパートナーは読書に没頭すると飯も睡眠も抜くことがある。時々見に行って生命の危機に瀕してないか、確認してくれよ」
「何それ。マチルダってそんなに本の虫なの?って言うか、先生は何教えてんのよ?ダメじゃない」
マデリンの顔つきが変わる。スライサーは苦笑して、
「悪いな、俺も人のことは言えない性分で」
「大尉、悪いこと言わないから、お嫁さんまで行かなくても、彼女とか作った方がいいわよ?スーパーエリートが宿舎で本と一緒に餓死、なんて、シャレになんないわ」
ジト目でスライサーを見ながらマデリンが言う。睨まれているが意に介していないスライサーは、どこかのんきに、
「そうだなぁ……考えとくかなぁ……」
「そうよ……そうだ、パパとママにお見合いのセッティング、お願いしてあげましょうか?でも大尉って結構女子に人気あるのよねー……余計なお世話よねー……」
「は?何だそりゃ」
自覚していない男というのは、この程度である。マデリンが嘆息する理由も意味も解らないまま、スライサーは首をかしげ、それから、まあいいか、ともう一度頭の中で唱えた。そして、
「掃除もあらかた終ったし……あのお子様に差し入れでも作ってやるか」
「あ、それ、いい考え!大尉、あたしも手伝っていい?」
独り言のような提案にマデリンが飛びつく。わはは、と豪快に笑って、
「どうせだ、晩飯まるっと作ってやるから、二人で食いに来い」
と、言い放つように返した。
終
蛇足。
「マデリンてめ、ガティにメシ作らせんなよ!コイツカレーしか作れねーくせに、めちゃめちゃ料理下手なんだぞ!」
「えーっ、だ、だって知らなかったんだもん!」
「おい二人とも……俺のカレーはそんなに不味いか?」
夕刻、大きな鍋に大量の、なかなか食べる事が難しい味わいのカレーを作ったスライサーとマデリンの襲撃に、マチルダが全力で反撃していた。
蛇足・終(笑)
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